「⑥天台大師が示す教主交代の思想」について

宮田幸一氏のホームページに掲載されていた以下の論考の矛盾点を考えてみたい。
『須田晴夫 「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察(修正版)」へのコメント(2024.10.22up)』

宮田幸一氏の論考は、須田氏が末法における「教主交代」(釈尊の順縁の化導から、日蓮大聖人の逆縁・下種の化導への転換)を論じるにあたり、不軽菩薩の実践を論拠としたことに対し、「不軽菩薩は末法の弘通を付嘱されていないのだから、上行菩薩を介在させなければ論理として成り立たない」と批判するものです。

しかし、この宮田氏の批判は、経文上の「付嘱の形式」のみにとらわれ、日蓮大聖人の仏法における「上行菩薩」と「不軽菩薩」の不可分な関係性や、末法における化導の本質を全く理解していない教条主義的な難癖に過ぎません。

1. 末法における化導(実践)の根本は「不軽菩薩」にある

宮田氏は、不軽菩薩が過去世の姿にすぎず末法弘通を付嘱されていないことを理由に教主交代の論拠とすることを批判していますが、大聖人は末法の衆生を救済する実践(折伏・逆縁の下種)の根本的な手本として不軽菩薩を最重視されています。 大聖人御自身が、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(御書1174㌻)と明言されています。末法の本未有善(過去世に善根を持たない)の衆生には、釈尊の順縁の化導はもはや通じず、法華経を強いて説き聞かせて謗らせる「毒鼓の縁(逆縁)」によって救うしかありません。この化導方式の転換を論じるにあたり、その実践の鑑である不軽菩薩を根拠とすることは、大聖人の仏法の本義に照らして極めて正当です。

2. 「上行菩薩(付嘱)」と「不軽菩薩(実践)」は大聖人の御身において一体である

宮田氏は「教主交代を言うなら上行菩薩を介在させよ」と批判しますが、大聖人の仏法において、上行菩薩と不軽菩薩は別個の存在ではなく、大聖人のお振る舞いの二つの側面(表裏一体)です。

  • 付嘱(資格)の面
    末法に南無妙法蓮華経を弘通する資格・証明として法華経に描かれたのが「上行菩薩への結要付嘱」です。

  • 実践(振る舞い)の面
    その末法の悪世において、実際に迫害(杖木瓦石・悪口罵詈)に耐えながら妙法を下種していく具体的な振る舞いのモデルが「不軽菩薩」です。 大聖人は御義口伝で、「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは、我ら法華経の行者なり。さては我らがことなり。今、日蓮等の類いは、不軽なり」(御書1067㌻)と仰せになり、上行菩薩としての自覚で戦う法華経の行者の姿こそが、そのまま不軽菩薩であると示されています。仏法の「資格」と「実践」を切り離し、上行を介在させなければ不軽菩薩の論拠が無効だとする宮田氏の主張は、仏法の生きた実践を理解していない浅薄な批判です。

3. 「熟脱」から「下種」への転換こそが「教主交代」の本質である

須田氏が不軽菩薩の化導(逆縁による下種)を教主交代の根拠に挙げたのは、仏法の機根が転換した末法においては、釈尊の「熟脱の仏法(順縁)」が効力を失い、日蓮大聖人の「下種の仏法(逆縁)」へと交代する必然性という「本質」を突いているからです。 天台大師が「本いまだ善有らざれば、不軽は大をもってこれを強毒す」(法華文句)と釈している通り、本未有善の衆生には強いて妙法を聞かせ、逆縁によって救うしかありません。この新しい化導の法体(南無妙法蓮華経)を弘通する存在として教主が交代するプロセスを説明する際、その化導法の象徴である不軽菩薩を提示することは論理的に全く破綻していません。須田氏が後に上行菩薩論を展開することも前提とすれば、宮田氏のこの箇所での批判は、単なる言葉尻をとらえた的外れな指摘です。

宮田氏の論考は、法華経の経文上の役割分担(上行は未来、不軽は過去)という形式的な字面にとらわれ、末法の御本仏・日蓮大聖人の御身において「上行菩薩の付嘱(使命)」と「不軽菩薩の実践(折伏)」が完全に一体不二となっているという、日蓮仏法のもっともダイナミックな生命論を理解できていません。須田氏の論証は、化導法の転換(順縁から逆縁へ)という教主交代の核心を見事に突いており、宮田氏の批判は論理的にも仏法の実践論としても完全に破綻しています。