なぜ曼荼羅本尊に向かって題目を唱えるだけで即身成仏できるのか
「なぜ曼荼羅本尊に向かって題目を唱えるだけで即身成仏できるのかという問題に対し、明確な説明や教示が『皆無』であり、日蓮自身は詳しい説明を避けて沈黙していたのではないか」
とする学者さん御中。
1. 釈尊の因行果徳の譲与(因果具足)
釈尊が成仏するために積んだすべての修行(因行)と、それによって得たすべての功徳(果徳)は、すべて「妙法蓮華経」の五字に具わっています。 そのため、凡夫がこの妙法五字を信受して唱え持つ(受持する)ならば、自ら計り知れない辛労を重ねずとも、仏の因果の功徳が自然にすべて自らの生命へと譲り与えられます。これが、修行における「受持即観心(受持すること自体が仏の生命を観ずることになる)」という成仏の根本的な根拠です。
2. 己心の仏性との感応道交(呼び現しの法理)
「妙法蓮華経」とは、単なる経典の名称ではなく、地獄界から仏界にいたる「一切衆生の備える仏性(法性・菩提)」そのものの名前です。 本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えるとき、自身の生命の奥底にある仏性(妙法)が呼び呼ばれて顕れ、それに応じて我が身に本来備わる法身・報身・応身の三身(仏の生命)が自然と引き出されます。大聖人はこの感応道交の姿を、「籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥が呼び集められ、それを見て籠の中の鳥も外へ出ようとする」という譬えを用いて説明されています。また、お題目を唱えること自体が、自らの内にある曇った心(無明の迷心)を磨いて法性真如の明鏡(仏の生命)とする行為そのものです。
3. 一念三千・十界互具の五字への包摂
法華経の究極の悟りである「一念三千」や「一心三観」といった深遠な観法や功徳は、すべて「妙法蓮華経」の五字に納まっています。 そのため、凡夫が複雑な観念を凝らさずとも、題目を唱えることによって、心中の本覚の仏(己心の如来)が自然に呼び現されます。妙法の五字は、経典の文字や理論そのものを超えた「一部の意(法華経全体の心)」であり、初心の行者がその深い意味を理解していなくても、ただ唱え行ずるだけで、自然に仏の意に合致し、成仏へと至ることができます。
4. 色心不二・依正不二による当体成仏(事の一念三千)
妙法蓮華経の当体とは、十界の依報(環境)と正報(生命)、色法(肉体)と心法(精神)のすべてを含んだものです。 本尊は「事の一念三千」の曼荼羅として著されており、これに向かって正直に方便を捨てて題目を唱える人は、自身の「煩悩・業・苦」の三道がそのまま「法身・般若・解脱」の三徳へと転じ、その身がそのまま「無作の三身の本門寿量の当体蓮華の仏」となります。 さらに、法華経(心法)を木画の像(色法)に印することで、本来は心を持たない非情の草木すらも生身の仏(草木成仏)となるように、本尊の仏意と唱題者の色心が不二(一体)となることで、私たちの現実の肉身のままで即身成仏が遂げられます。
5. 「信」をもって「慧」に代える(以信代慧)
末法の初心の行者は、仏の深い智慧(慧)を自力で理解することは困難です。しかし、法華経は「信をもって入ることを得る」経典であり、智慧が浅くとも「信の一字」があれば、それが成仏の種子となります。 大聖人はこれを、「幼子が乳の成分や味を知らなくても、ただ飲むことで自然と身体が成長する」、あるいは「病人が名医の調合した薬の原材料を知らなくても、ただ服用すれば自然と病が治る」という譬えで示されています。意味を完全に理解していなくとも、本尊を信じてただ南無妙法蓮華経と唱えるだけで、妙法の大良薬の力が任運に働き、成仏の道へと導かれます。
引用:
(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄)
(034)聖愚問答抄下
(048)法華初心成仏抄
(015)一生成仏抄
(020)一念三千法門
(038)当体義抄
(280)諸法実相抄
(045)木絵二像開眼之事
(012)四信五品抄
(034)聖愚問答抄下
