見出し画像

あのときの恩人 #掌編小説

「お前さ、なんか顔つき変ったな。目のあたり」

 半年ぶりに会ったイマイが自分を見ていた。場所は御茶ノ水駅のホーム。予備校の帰り。イマイとは高三では同じクラスだった。卒業以来だ。こんなところで会ったのは本当に偶然だった。
「制服じゃなくて、私服だからそう見えるだけだろ」
 眼鏡のフレームを押さえながらそう答えると、イマイは「そうかもな」とうなずいた。すぐに互いの予備校の授業の話になり、来年の本番に向けて頑張ろうなといってそのまま別れた。

 そのときは気が付かなかった。けれど電車に乗ってしばらくしてから、イマイの言葉を思い出した。顔つきが変わった?――顔色が悪かったってことか? 

 家に帰ってからも、それが気になって仕方ない。勉強に身が入らない。

 ――いや、それは嘘だ。

 勉強に身が入らないのは、この夏からずっとだった。顔つきが変わったという言葉に引っ掛かったのは、それが図星のように感じられたからだ。

 もともと、現役で大学に入れるとは思っていなかった。第一志望の大学に落ちても一年浪人すれば何とかなる、そう楽観的に考えていた。むしろ浪人生活をエンジョイしようとさえ思っていた。

 でも、夏を過ぎたあたりから、だんだん歯車が狂いだした。どうにもこうにも勉強に集中できなくなった。予備校の授業中も、教師の言葉が風みたいに通り過ぎるだけで頭に入ってこない。自習室にいても、教科書の同じページを何度も読み直してしまう。周りの予備校生が静かに勉強しているのに、自分だけ取り残されるような気持ちに襲われる。

 成績が現役時代より悪くなるとさらに焦る。数学の解法も英語の構文もさっぱり覚えられないなか、どんどん授業に遅れていく。やばい、やばい、なんとかしなくちゃ。その気持ちが焦りを増幅させて、ますます集中できなくなる。

 そのうち、四六時中ドキドキするようになっていた。静かにしていても落ち着かずに手が震えるし、イライラしてくる。しかも、やたら汗をかく。エアコンの効いた自習室の中でも、少し歩いただけで汗が噴き出してくる。まるでいつも全力疾走しているかのよう。でも、頭や胸が痛いとか、身体のどこかに具体的な痛みがあるわけじゃない。

 だったら自律神経の失調? 精神的なもの? 浪人しても大丈夫なんて口では言っていても、実は自分で考えているより精神的にダメージが来ていたってことか――認めたくないけれど……

 気づくと、授業に出られなくなり、というよりサボるようになっていた。とにかく疲れやすい。予備校の前まで行っても、結局近くの喫茶店やゲームセンターに逃げ込む。高い学費を思うと親に申し訳ないと思いつつ、どうすることもできない。

 そのうち小遣いが無くなると、心が落ち着くかもしれないと予備校近くの神社で時間を潰した。けれど、鳥のさえずりを聞いたり静謐な空気に触れていると、余計に思考が堂々巡りになる。いつまでこんな状態が続くんだろう。自分はとうとう壊れてしまったのか。助けてください――何度か通ったけれど、肝心なときに神様は助けてくれないということだけ理解した。

 もう将来のことなどまったく考えられない。授業に向かう他の予備校生たちとすれ違うたびに目の前が真っ暗になっていく。完全に落ちこぼれてしまった。もう大学は諦めたほうがいいかもしれない――そう思って帰りの電車を待っているとき、イマイとばったり会った。

 さんざん悩んだあげく、母に打ち明けた。

 予備校をサボっていることはさすがに言えないので、遠回しに体調が悪くて勉強に身が入らないと話した。さすがに親だ。息子の体調がおかしいことはどうも前から気づいていたらしく、いろいろ心配していたようだった。ただ面と向かって心配そうな表情をされると、かえってこっちが申し訳なくなる。

「ちょっと自律神経が弱ってるだけだから」
 心配させておきながら、余計に心配されるのが嫌で、そう言って話を切り上げようとした。けれど、「イマイに顔つきが変わったと言われた」と話したとたん、母は眉をひそめた。
「変わったってどういうこと?」
 わざわざ聞き返してくる。
「……なんか、高校のときと様子が違うって」
「どう違うの」
「……目のあたりが」
 母は真剣な表情で自分を見つめた。そして、手を伸ばして自分の眼鏡を外し、もう一度目を見るとこう言った。
「明日病院行くわよ」

 甲状腺機能亢進症――バセドウ病と診断されるまではそんなにかからなかった。甲状腺ホルモンが過剰に分泌されて、全身の代謝が異常に活発になる、いわゆる自己免疫疾患。女性に多く、十代の男子がなるケースは少ないらしい。集中力が減り、動悸や多汗、疲れやすくなるといった自分の状態は典型的な症状だった。高校までずっと健康だったから、そんな病気があることも知らなかった。

 担当医は「目の話から甲状腺の病気と気づいたお母さんは流石だねえ。感謝しなくちゃだめだよ」と感心した様子で言った。「眼球突出」という症状だった。高校時代の写真と比べると確かに自分でもわかる。どちらかというと小さく細かった目がぱっちりと開いている。
 でも、イマイに指摘されるまで自分自身ではわからなかったし、母だって毎日自分を見ていたくせに気づかなかった。

 とはいえ病名がはっきりすると、まるでオセロの駒が黒から白に裏返るように、気持ちが変わっていくのがわかった。そうか。これは身体の病気だったんだ。精神力とかの問題じゃない。抗甲状腺薬をきちんと服用すれば治療できる。

 それがわかっただけで、長いトンネルの中にようやく光が見えた――



「お前が言ってくれたおかげだよ」
 中ジョッキのお代わりを注文してから、イマイに頭を下げた。

 社会人になって数年後。駅のホームでスーツ姿のイマイを見かけた。あのときと同じ御茶ノ水。またしても偶然の再会だ。その流れで近くの居酒屋に誘った。どうしても礼を言いたかったからだ。

「あのひとことで検査できたんだ。本当に恩人だよ……」
 病名がはっきりしてから専門病院に通院するようになると、時間はかかったけれど症状は徐々に改善していった。成績も回復して翌年なんとかギリで大学にも合格できたし、就職もできた。目つきは元には戻らなかったものの、見慣れるうちに、このままでいいと自分でも思えるようにもなっていった。眼鏡からコンタクトレンズに替えたくらいだ。すべてはイマイのひとことがきっかけだった。

「……うーん、俺がねえ」
 イマイは、つくねを食べながら首をかしげた。酒に弱いようで顔は真っ赤だ。ふと、遠くを見るように目を細めた。
「うろ覚えなんだけどさ……たしかあのとき、一人じゃなかったろ」
「?」
「お前と一緒にいた奴が……女かな? 何か落としてさ、俺が拾ったらお前がいたんだ」
「え?……」
 いきなり、何を言ってるんだ? あのとき自分は一人だった。予備校にも友達なんていなかった。まして女なんて……それはイマイの記憶違いか、思い込みじゃないのか――
「……それでお前の顔を久しぶりに見て、なんか顔つきが変わったなあって言ったんだよ……そうだ、思い出した」

 一人で納得してうんうんとうなずいていたイマイが「あれ?」と、据わった目で壁を見ながらつぶやいた。「ああ、よく似てる。あんな感じの女がお前と一緒にいたんだよ」

 つられて目をやると、壁にポスターが貼ってある。どこかの祭りのポスター。そのポスターに、神様か何かの女性キャラクターの絵が描かれていた。

 あれは……

 そのポスターに書かれた祭りの場所の名前と、建物の写真を見てハッとした。あの最悪の状況のときに通った、予備校近くの神社だった――

 イマイが自分を見ながら言った。

「お前さ、昔より、いい顔つきになったと思うよ」


<了>




(作者より)
この作品はフィクションですが、バセドウ病の症状については、作者自身の体験をもとに描写しています。当時は原因がわからず苦しい日々を送っていました。その後、目のことがきっかけで検査を受け、治療に至りました。症状や治療には個人差がありますが、似たような体調不良で悩んでいたら、適切な医療機関に相談することをお勧めします。