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長与専斎 ── 「衛生」という概念を導入し、医療を国家のインフラに変えた男


その「当たり前」は、誰かが作った

家庭で出たごみは定期的に収集・処理してもらえる。感染症が流行れば、国が動く。私たちにとって当たり前のこの環境は、かつての日本には存在しませんでした。

江戸までの日本において、病気とは「個人の不摂生」や「運」で片付けられるもの。それを「国が仕組みで守るべきインフラ」へと劇的に変えた男がいます。

長与専斎(ながよ せんさい)。

明治の医療界を牽引した彼が作ったのは、「衛生」という新しい概念とシステムでした。私たちが今日、安全に暮らせているのは、彼がその仕組みを国中に張り巡らせたおかげなのです。

欧米の地下に見た「国家の意志」

1871年(明治4年)、岩倉使節団の一員として欧米を訪れた34歳の長与は、現地の病院ではなく「街そのもの」に衝撃を受けました。

ベルリンやロンドンには、塵(ちり)一つない石畳が広がり、地下には巨大な下水道が張り巡らされていました。市場の食品は厳格に管理され、伝染病が出れば行政が即座に封じ込める。

「これは、単なる医術ではない」

彼が目撃したのは、目の前の患者を治す医療を超えた、国全体で国民の生命を守ろうとする巨大な統治システムでした。欧米列強の強さは、軍事力以前に、国民を病気から守り労働力を維持する、この「見えないインフラ」にある。

現地の言葉で「Sanitary(サニタリー)」と呼ばれるその行政分野に、長与は日本の欠落を見ます。日本には医術はあっても、国が主導して病気を防ぐという発想そのものがなかったのです。

「養生」を超えて「生を衛る」へ

帰国した長与が直面したのは、この新しい概念をどう日本に定着させるかという課題です。最初の壁は「言葉」でした。

当時の健康観といえば、貝原益軒の『養生訓』に代表される「養生」。しかし、これはあくまで「個人が自分の体をいたわる」という自助の教えです。長与が目指す「国家が法と組織で民を守るシステム(公助)」とは、根本的に思想が異なりました。

「健康」や「保健」という訳語も検討されましたが、どうしても個人の体力作りの域を出ません。国家が断固たる意志を持って国民の命を守る、その力強さを表す言葉はないものか。

試行錯誤の末、長与は中国古典『荘子』の一節に行き着きます。

「衛生」── 生を衛(まも)る。

「衛る」という字には、外敵から防衛するという強い意志が込められています。病気という見えない敵から、国家が組織的に国民の命を衛る。これこそが、彼が目指したシステムの正体でした。

彼は直ちにこの言葉を採用し、政府の組織名も「衛生局」と改めます。それは、健康管理を「個人の心がけ」だけに委ねず、「国家が担うインフラ」へと再構築した瞬間でした。

「個人の心がけ」を「社会のルール」へ

言葉が決まっても、社会はすぐには変わりません。次に長与が直面したのは、旧来の価値観との激しい摩擦です。

当時猛威を振るっていたコレラに対し、衛生局は患者の隔離や消毒を強力に進めました。しかし、これに民衆は猛反発。「衛生局に生き血を抜かれる」といったデマが飛び交い、暴動さえ発生しました。漢方医たちも、西洋医学に基づく新しいルールに強く抵抗します。

でも長与は、「説得」以上に「仕組み化」を優先します。警察権力とも連携し、上下水道の整備基準、医師の資格制度、食品検査などを矢継ぎ早に法制化。「清潔」を個人の任意ではなく、社会のルールとして強制するアプローチをとったのです。

意識が変わるのを待っていては、守れる命も守れない。まず「仕組み(ハード)」を作り、行動を変えさせ、結果が出始めれば「意識(ソフト)」は後からついてくる。

この断固とした実行力こそが、長与の真骨頂でした。国民を病魔から守り抜くには、点としての病院を作るだけでは足りない。全国を面で覆う「衛生行政」というネットワークを張り巡らせるしか、道はないと確信していたのです。

あなたの組織は「予防」を評価しているか

長与専斎が「衛生」という言葉に込めた意志は、現代の蛇口から出る清潔な水や、パンデミック時のマスク着用といった行動にしっかりと受け継がれています。

そして彼の仕事は、現代のビジネスリーダーにも鋭い問いを投げかけています。

あなたの組織では、「火消しが得意な人」と「火事を起こさない仕組みを作る人」、どちらが評価されているでしょうか。

トラブルに対処する姿は英雄的に見えます。しかし、本来賞賛されるべきは、問題が起きないように設計し、地道な点検を徹底する「名もなき設計者」であるはずです。

長与専斎は、まさにその設計者でした。国民の「生を衛る」という国家の責任を果たすために、批判を恐れず、嫌われ役を買って出て、地味なインフラ作りを完遂しました。

「ひらめきは、それを得ようと準備し、苦心した者にのみ与えられる」

細菌学の父パスツールのこの言葉通り、長与の人生もまた、日本の健康を守るための壮大な準備の連続でした。トラブルシューティングも大切ですが、それ以上に「何も起きない平和」を守り抜く仕組み作りにこそ、リーダーの真価は問われます。

出典

国立国会図書館明治の公衆衛生に尽力した人々
nippon.com長与専斎:感染症予防に取り組んだ医療・衛生制度の父|2022年5月16日
ダイヤモンド・ビジョナリー日本の医療制度はこうして始まった 長与専斎という男の挑戦
長崎大学薬学部長崎薬学史の研究~第三章 近代薬学の定着期(4.医療・衛生行政制度の創始者:長与専斎)
福岡市薬剤師会夜明け前 長与専斎による「医制 76条」の制定
杏林大学明治初期における衛生行政と長与専斎(社会科学研究 第36巻)[PDF]|2020年
桃山学院大学総合研究所第1回 『長与専斎と内務省の衛生行政』(連続インタビュー)
臨済宗大本山 円覚寺衛生(管長日記)|2020年4月8日
大村市長与 専斎(ながよ せんさい)|2025年4月8日更新
医書.jp長与専斎(1831-1902年)(公衆衛生 45巻2号)|1981年2月15日

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