飯を食わせろ 第四章
本作はフィクションです。登場する人物・企業・団体・地名はすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
第四章 手が、足りない
残り四十五個を売り切るのに、十一日かかった。
恵比寿の次は代官山、代官山の次は中目黒、中目黒の次は吉祥寺。セレクトショップを一軒ずつ回った。断られた店が六軒。買ってくれた店が三軒。買い取り合計は二十個だった。
残り二十五個は、雄介が自分のウェブサイトを作って売った。
ウェブサイトといっても、無料のサービスを使った簡単なページだ。ヤコブの工場の写真と、商品の説明と、振込先の口座番号を載せた。告知はどこにもしていない。それでも、一週間で十二個の注文が来た。
どこから来たのか、今でも分からない。
最後の十三個は、帰りがけに立ち寄った名古屋の雑貨店が引き取ってくれた。店主が商品を手に取り、蝶番を三回開け閉めして、「これ、いくら?」と聞いた。答えると、「全部置いていって」と言った。それだけだった。
五十個、完売した。
利益は、三十四万円だった。
二億八千万の借金に対して、三十四万円。元本どころか、利息の利息にも届かない数字だった。それでも雄介は、その三十四万円を工場の事務所の机の上に並べた。封筒に入れたまま、横に並べた。
三十四枚の一万円札が入った封筒が、一つ。それだけだった。
長い間、見ていた。
砂漠に一滴の水を垂らした。その一滴は本物だった。しかし砂漠はまだ、どこまでも続いていた。
次の仕入れは、百個にした。
ヤコブに連絡すると、「約束を守ったな」と返ってきた。それだけだった。百個の建具金物が、三週間後に永泉の工場に届いた。段ボール箱が積み上がった。工場の隅に、今度は雄介の仕入れ品が並んだ。
売れた。
百個が、二週間で捌けた。
次は二百個にした。ここで最初の失敗があった。
在庫の管理をスプレッドシートで手入力していたため、ウェブサイトの在庫数と実際の在庫がずれた。注文を受けた後で在庫がないことに気づき、三件のキャンセルを出した。顧客へのメールを書きながら、雄介は背中に冷や汗が流れるのを感じた。謝罪の言葉を何度書き直しても、キーボードを叩く指先が、自分のものとは思えないほど重かった。三件のうち一件は、返信に「もう注文しません」と書いてあった。
たった三件。しかし、その三件が、今の自分の脆さを全部表していた。
一人でやれる限界がどこかにある。その限界を、まだ見ていなかっただけで、限界はずっとそこにいた。
二百個は一ヶ月かかった。三百個にした。
ウェブサイトの注文が増え始めたのは、三ヶ月目からだった。
最初は月に十数件だった注文が、ある週から急に増えた。どこかで誰かが紹介したらしい。SNSで写真を投稿した人がいたらしい。雄介には詳細が分からなかった。ただ、朝起きると注文が十件入っていて、昼になるとまた五件入っていて、夜には合計二十件になっていた。
一件一件、梱包して発送しなければならない。
昼は問屋と店舗を回り、夜は工場で梱包した。梱包しながら、次の日の営業の準備をした。準備しながら、経理の入力をした。入力しながら、ヤコブへのメールを書いた。メールを書きながら、朝になった。
睡眠が、三時間を切る日が続いた。
月の利益が百万を超えた。
通帳に記帳されたその数字は、かつてバンクーバーで得ていた月収を超えていた。しかし、かつての喜びは微塵もなかった。画面に表示されるのは「プラス一、〇〇〇、〇〇〇」。だが、工場の負債という巨大な穴の前では、それはただの無機質な記号にしか見えなかった。
雄介は、その百万円を一切手元に置かなかった。
ヤコブへの次の仕入れ代金。工場の電気代と設備の維持費。在庫管理のシステム使用料。新しく始めた梱包資材の定期仕入れ。それだけで、百万円はほぼ消えた。
二億八千万に対して百万円。完済まで、まだ二百八十ヶ月かかる計算だ。二十三年以上。百四十年よりは確実に短かったが、雄介が五十歳を超えるまで続く計算だった。
数字が増えるほど、やることが増えた。仕入れ。在庫管理。発送。問い合わせ対応。伝票発行。経理入力。ウェブサイトの更新。新規店舗への営業。既存店舗のフォロー。梱包資材の調達。ヤコブへの次回発注。
全部、雄介一人でやっていた。
深夜に段ボールを折りながら、ふとヤコブの言葉が浮かんだことがある。「We are small. We can talk.」。あの短いメールを思い出すたびに、フュン島の工場の油の匂いと、コーヒーの温度が戻ってきた。小さいから話せる。それは強みだと、あの時は思っていた。しかし今の自分は、小さいのではなく、ただ手が足りないだけだった。
十一月の終わりに、雄介は東北に行った。
仙台と盛岡のセレクトショップに、アポイントを取っていた。車で往復すると、二日かかる。その間、工場の発送が止まる。止まれば、翌朝に溜まった注文が待っている。
仙台の一軒目は、即決だった。
盛岡の二軒目は、「持ち帰って検討します」と言った。担当者は若く、感触は悪くなかった。雄介は一週間後にフォローの連絡を入れた。返事はなかった。二週間後にもう一度入れた。「検討中です」とだけ返ってきた。
その後、返事は来ていない。
二日間と往復の燃料代と、仙台のビジネスホテル代。それだけのコストをかけて、確定したのは仙台の一軒だけだった。採算が合うのかどうか、計算する気になれなかった。計算すれば、また別の絶望が出てくる。
帰り道、東北道のサービスエリアに車を停めた。夜中の二時だった。シートを倒して横になったが、眠れなかった。背中が痛い。肩が固まっている。目を閉じると、未処理の注文の件数が浮かんだ。
スマートフォンを手に取った。
通知が二十七件来ていた。注文が十四件。問い合わせが八件。ヤコブからメールが一件。父から着信が一件。
父からの着信だけ、折り返さなかった。
何を言われるか、分かっていた。「うまくいっているのか」と聞かれるか、「無理をするな」と言われるか、どちらかだ。どちらの言葉も、今は受け取れなかった。受け取れば、何かが崩れる気がした。
サービスエリアの駐車場で、一時間横になった。
眠れないまま、また走り始めた。
永泉に戻ったのは、朝の四時だった。
工場の引き戸を開けると、出荷待ちの段ボール箱が積み上がっていた。昨日の夜から溜まった分だ。数えると、二十三箱あった。
梱包資材を取り出した。
作業台の前に立った。
腰が、一瞬、悲鳴を上げた。東北道を往復した後の腰は、まっすぐ立つだけで痛かった。それでも動かした。動かし続けなければ、この箱は減らない。
一箱梱包した。
二箱梱包した。
三箱梱包したところで、工場の電気がついた。
振り返ると、田村が入り口に立っていた。勤続二十二年の古参従業員。雄介が帰国した頃から、冷ややかな目で見ていた男だ。今日は何時間の睡眠で来たのか。作業着は、昨日と同じに見えた。
「……手伝いましょうか」
田村が言った。
雄介は、すぐには言葉が出なかった。
「出荷。一人じゃ無理でしょう。見てたらわかります」
田村は作業台の横に来て、段ボールを手に取った。折り方を確認して、黙々と折り始めた。
二人で、無言で段ボールを折った。
しばらくして、田村が言った。
「先代もね、昔はああやって一人でやってました。僕らが入ったころには、もう手伝えるようになってたけど」
「田村さんは、なんでまだここにいるんですか」
田村は少し間を置いた。
「工場がなくなったら、困るから。それだけですよ」
それだけ、だった。
雄介のためでも、父のためでもなかった。自分の居場所が消えることへの、静かな抵抗だった。
雄介は手を動かしながら、田村の横顔を見た。田村の視線が、一瞬、雄介の手元に落ちた。爪の間に入り込んだ鉄粉。デンマークに行く前から積もった工場の汚れが、どれだけ洗っても落ちなかった。田村はすぐに視線を段ボールに戻した。何も言わなかった。
その沈黙の中に、何かがあった。
田村はずっと見ていたのだ。帰国してから今日まで、この工場で何が起きているかを。深夜に一人で梱包する背中を。東北から戻って朝四時に作業台に立つ姿を。言葉にはしなかったが、見ていた。恵比寿のバイヤーが見た鉄粉を、田村もとっくに見ていた。ただ、それだけのことだった。
その「それだけ」の重さを、雄介はこの朝、初めて理解した。
田村が手伝い始めてから、出荷のスピードが変わった。
一人でやっていたとき、二十三箱は三時間かかっていた。二人でやると、一時間で終わった。単純な話だった。しかし雄介には、その単純な事実が見えていなかった。
一人でやり続けることに、いつの間にか固執していた。
父から預かった二十五万円で始めた仕事だ。父の条件は「一人でやれ」だった。その言葉が、いつの間にか「一人でなければならない」という呪いに変わっていた。
翌日から、田村が毎朝出荷を手伝った。
何も言わずに来て、何も言わずに折り始めた。終わったら、自分の持ち場に戻った。雄介は礼を言った。田村は「べつに」と言った。それだけだった。
工場に、小さな変化が起き始めた。
十二月の半ばに、高木金物店の老主人が工場を訪ねてきた。
高木は父の代からの主要取引先だった。創業五十年の問屋。父が一番きつかったときも、取引を続けてくれた相手だ。
老主人は、事前の連絡なしに来た。
帽子を手に持ったまま、立って話した。
「柏木さん。聞いた話では、直販を始めたそうやな」
「はい。ウェブサイトで直接お客さんに」
高木は帽子を強く握った。節くれだった指が、白くなった。
「お前の親父さんはな、わしに一回も嘘をつかんかった。借金が三億になった時も、売上が半分になった時も、必ず顔を見せに来た。そういう男やった」
「知っています」
「ならば分かるやろ」
高木の声が、低くなった。
「問屋を通さんいうことは、わしらだけやない。この工場を支えてきた人間の顔に泥を塗ることや。お前がやろうとしとるんは、ただの直販やない。問屋がなければ、小さなメーカーは生まれへん。わしらみたいな人間が間に入ることで、お前の親父みたいな職人が食っていけた。その仕組みを壊して、お前は何を作ろうとしとる」
工場の中が、静かになった。
高木の言葉は正しかった。問屋という存在が長年担ってきた役割を、雄介は否定しようとしている。それは父の恩人を傷つけるだけでなく、業界全体の秩序を揺さぶることだった。
雄介は、高木の目を見た。
怒りではなかった。失望でもなかった。老いた商売人が、自分の世界が終わっていくのを見ている目だった。
「分かっています」
雄介は言った。
「高木さんがこの工場を守ってくれたことは、知っています。その恩義を踏み台にしていることも、分かっています。でも——信義を守って、この工場が消えるのを待つことは、できません。父が守ってきたものを、俺が別の形で続けるためには、今の仕組みの中にいるわけにいかない。それが、親父への俺なりの答えです」
「……勝蔵さんが泣いとるわ」
高木は静かに言った。怒鳴らなかった。声を荒げなかった。怒鳴られるよりも、その静けさのほうが、雄介の肺を深く圧迫した。
「お前の顔は、もう見たくない」
帽子を持ったまま、頭を下げた。
そして出て行った。
ドアが閉まる音が、工場に響いた。
田村が出荷スペースで作業していた。振り返らなかった。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。その沈黙が、この工場で起きていることを全部知っている人間の沈黙だった。
雄介は、しばらくその場に立っていた。
高木は間違っていない。雄介も間違っていない。どちらも正しいがゆえに、どちらかが傷つくしかなかった。商売とはそういうものだと、この日初めて理解した。きれいに勝てる戦いなど、最初からなかった。
その夜、雄介は事務所に一人で残った。
引き出しを開けた。
カナダの永住権申請書類が出てきた。帰国した夜、バンクーバーのアパートで引き出しに押し込んだまま、日本まで持って帰ってきていた。
封筒の表面に、提出期限の印刷があった。
日付は、とっくに過ぎていた。
雄介はその封筒を、しばらく見た。
もう意味のない書類だ。なぜまだ持っているのか。捨てられなかったのか。それとも、いつか使う日が来ると、どこかで思っていたのか。
二つに折った。
もう一度、折った。
工場の隅のゴミ箱に、捨てた。
音もなく、落ちた。
雄介は立ち上がり、工場に出た。田村の機械が止まっている。祖父の機械が暗がりに立っている。今日も飢えている。今日も沈黙している。しかし雄介は前ほど、その沈黙に押し潰されなくなっていた。
いつか飯を食わせる。
その順番が、少しずつ近づいている。
高木を傷つけた。カナダを捨てた。「一人で背負え」という父の呪縛を、田村に崩された。そのたびに何かを失ったが、失うたびに、工場の床を踏む足が、少し深く地面に入っていく感覚があった。
引き戸を閉めた。
外は冷えていた。星が出ていた。
ガチャン、ガチャン。
どこかで音がしたような気がした。
振り返っても、祖父の機械は止まったままだった。
永泉の夜は、静かだった。
第五章へ つづく
