【百歩目】老荘思想と『茶の本』。
はい、百歩目。
1.聖福寺とお茶の木。
本日は通勤ルートにある福岡市博多区の聖福寺に寄ってきました。
門前には「扶桑最初禅窟」と書いてあります。日本で最初に禅の道場というくらいの意味で、石碑の文字は後鳥羽上皇の筆なんだそうです。

聖福寺は1196年に源頼朝が栄西禅師を招いて創建された、博多を代表する古刹です。

博多駅からさほど離れてはいませんが、博多の寺町の中心でもあり、聖福寺の境内は街中の喧騒とは無縁といったたたずまいです。栄西禅師は宋で学んだ禅仏教を日本に広めたわけですが、他にも日本人にゆかりのあるものを持ち帰っています。

それが「お茶」です。栄西禅師は筑前の背振山、肥前の平戸、滋賀の坂本などで茶の栽培をしています。
2.喫茶養生記。
栄西禅師は茶の木を栽培し、その栽培方法だけでなく、書物を著してお茶を飲む習慣も日本に広めようとしました。それが『喫茶養生記(きっさようじょうき)』という書物です。

『喫茶養生記』の冒頭にこうあります。
❝茶者養生之仙薬也。延齢之妙術也。山谷生之其地神霊也。人倫採之其人長命也。天竺唐土同貴重之。我朝日本亦嗜愛矣。古今奇特仙薬也。❞
→ 茶は、養生のための仙薬(不老不死の薬)である。寿命を延ばす妙術である。山や谷に生えるその植物の産地は、神聖で霊験あらたかである。人がこれを摘み取り、飲み続けるならば、その人は長生きするであろう。天竺(インド)や唐土(中国)でも同様に貴重なものとされている。我が国日本においても、人々はこの茶をを好み愛している。古今を通じて、これほど奇特な(優れた)仙薬は他にない。
お茶は養生のための仙人の薬、「仙薬」であると言っています。なお、『喫茶養生記』の「養生」も荘子に由来します。

「茶」は、紀元前くらいから一部地域では飲まれていたようなんですが、その種類の特定や効能がはっきりとするのは魏晋南北朝時代になってからです

また、本草学のバイブル『神農本草経』において、「茶」は「苦菜」として表記され、上・中・下のうちの、「上薬」とされています。
❝苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老。❞
→ 本来の名は苦菜(くさい)という。別名を荼草(とそう)、または選(せん)とも呼ぶ。味は苦く、その性質は体内の熱を冷ます作用(寒)がある。山間の渓流沿いや谷間に自生するものである。
五臓(体内の全機能)に潜り込んだ悪影響を及ぼす気(邪気)を払い落とす。また、食べ物が喉を通らないような食欲不振(厭穀)や、胃の働きが鈍り、気が滞って起こる痛みや不快感(胃痹)を解消する。
長期間服用し続けると、精神を穏やかに落ち着かせ(安心)、生命エネルギーを充実させる(益気)。さらに、五感が研ぎ澄まされて理解力が鋭くなり(聡察)、横になって眠る必要が少なくなるなり、心身が軽快になる(少臥)。その結果として、身のこなしは軽くなり、老化に負けない体をつくることができる。
本来は「荼草(とそう)」(※よく見ると「茶」の字とはちょっとだけ違う字です。)はアザミとかノゲシのことを指していたらしいのですが、後にこの効能などを見ると、これは茶のことであろうという説が有力になりました(この「茶」の研究に関しては道教教団・茅山派の開祖、陶弘景の功績が大きいです)。
面白いのは、千数百年前の時点で、「茶」の精神の安定と覚醒の両方の作用についてすでに記録されている点、あとは、この「苦菜」の記録の後に「胡麻」、「麻黄」と千年たっても我々の暮らしの身近にある植物の名前が記録されている点でしょうか。
後に、『神農本草』の名前の由来である、農業と薬学の神・神農が百草を嘗めた後、風に舞って碗の上に落ちた茶の葉によってそれまでの病を治した(「神農嘗百草 日遇七十二毒 得荼而解之」)という伝説も付け加えられるようになりました。
この神農のお話は、8世紀に陸羽によって記されたお茶の聖典『茶経』にも載っています。老子や荘子の時代にはおそらく認知すらされていなかった「茶」という植物は、道教の思想にとても相性がよく、ともに伴走するようになります。
3.『The Book of Tea(茶の本)』。
さて、こう来ると外せないのが『茶の本』です。1906年に英語で出版された日本文化の紹介本、著者は、岡倉天心です。

この『茶の本』の特徴は、ものすごく大雑把に言うと新渡戸稲造の『武士道』を意識して、それに対するアンチテーゼを提示している点です。『武士道』は基本的には『葉隠』のような儒教道徳(ちなみに『葉隠』の別名は『鍋島論語』)の強い書物で、そこから日本文化を紹介するという趣旨がありましたが、『茶の本』は儒教道徳以外の観念、そしてアジアの思想史の全体像から日本文化のありようを示します。

❝ 象牙色の磁器にもられた液体琥珀の中に、その道の心得ある人は、孔子の心よき沈黙、老子の奇警、釈迦牟尼の天上の香にさえ触れることができる。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。❞
文中に、孔子、老子、釈迦の三人の対比が出てきますが、アジア人として西洋に語り掛けるというのが『茶の本』というか岡倉天心の主眼です。

❝道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中にも美を見いだそうと努めている。宋代のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈迦牟尼、孔子、老子が人生の象徴酢瓶の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸いと知り、仏陀はそれを苦いと呼び、老子はそれを甘いと言った。
道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。❞

儒教、仏教、道教の祖である孔子、お釈迦様、老子がお酢を嘗めるという三聖吸酸のお話も出てきます。(この禅画を描いたのも江戸時代の聖福寺の住職、仙厓義梵です。)
4.茶道は道教の仮の姿。

❝ 茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった、今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。
茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇きをいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう――こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。
そしていかにも不思議なことには、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。❞
岡倉天心はさらに、「茶道は道教の仮の姿である」とまで言っています。これが『茶の本』の最も特徴的なところというべきもので、道教の占める割合いが非常に大きいんです。

❝ 古の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた、というのは半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく終わりに聞く者をして賢ならしめた。
老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。「道」は文字どおりの意味は「径路」である。それは the Way(行路)、the Absolute(絶対)、the Law(法則)、Nature(自然)、Supreme Reason(至理)、the Mode(方式)、等いろいろに訳されている。
こういう訳も誤りではない。というのは道教徒のこの言葉の用法は、問題にしている話題いかんによって異なっているから。老子みずからこれについて次のように言っている。
物有り混成し、天地に先だって生ず。寂たり寥たり。独立して改めず。周行して殆からず。もって天下の母となすべし。吾はその名を知らず。これを字して道という。強いてこれが名をなして大という。大を逝といい、逝を遠といい、遠を反という。
「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。
「道」は道教徒の愛する象徴竜のごとくにすでに反り、雲のごとく巻ききたっては解け去る。「道」は大推移とも言うことができよう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。❞
ここでは、老子の道(Tao)について、また相対性についてのお話があります。
5.「虚」のはたらき。

❝道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。
われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。
この事を老子は「虚」という得意の隠喩で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。
虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
道教徒のこういう考え方は、剣道相撲の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。
何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。❞
この老荘思想が他の芸術や、身体技法にまで及ぼした影響にもきちんと触れています。ちなみに、『茶の本』における柔道の話は、言葉選びから見て小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『柔術』を意識しているのかもしれません。
6.不完全性の美。
もう一つ、この『茶の本』のテーマは「不完全性の美」です。冒頭でも「茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。」とする岡倉天心は、不完全性についても禅や道教を根拠に説明します。

❝「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表わすものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。❞
というように、このnoteの在庫一掃処分ができそうなくらいの『茶の本』。大変短い本ですが、その深みは大変なもので、老荘思想と禅仏教の入門書としておすすめです。興味のある方はぜひ。
ちょうど百歩目で一つの目標に到達したので、連続更新はお休みします。それでは、下次見 ‼
