『檸檬爆弾』美しさを表す檸檬とは
今回のテーマ「檸檬」
梶井基次郎の『檸檬』を読んでいて、ずっと気になっていたことがある。
あらすじ
主人公は病気や借金に追われていた。
途方に暮れた主人公は
びいどろで遊んだことや母に叱られたことなど
昔のことを懐かしんでいた。
そうすると以前好きだった本屋(丸善)を通り過ぎた。主人公は丸善で雑貨を見るのが好きだった。
だが今の主人公にとっては重苦しい場所である。
そんな重苦しい気持ちを晴らせたのが
一個の檸檬(レモン)だったのだ。
丸善を去る時、
積み重ねられた本の上に檸檬を残した
そして「10分後には丸善が爆発するんだ」
と想像することで
あたかも自分が凶悪犯のような高揚感を得た
謎すぎる。。よく分からない。。
初めて読んだ方、その感想が正解です👍🏻
もしよかったら全文を調べて読んで見てください
それでは本題に入ります
とその前にこれだけ覚えといて
「檸檬」=レモン
【考察】
なぜ、主人公は「檸檬」に惹かれたのだろう。

もちろん、檸檬は鮮やかな黄色をしている。
冷たい。
香りがある。
そして、手に持つとずっしりとした重さがある。
主人公の「私」は、その檸檬に強く惹かれていく。
そして最後にはその檸檬を丸善(本屋)に置いて、
「これが爆弾だったら……」
と想像する。
一見すると、ただの奇妙な話だ。
しかし、私はここに「檸檬」という名前だからこその意味があるのではないかと思った。
英語の「lemon」には意外な意味がある
英語の「lemon」には、
俗語的に「欠陥品」や「出来の悪いもの」
を指す意味がある。
もちろん、梶井基次郎がこの英語の意味を意識して『檸檬』を書いたと断定することはできない。
でも、もしこの意味を重ねて読んでみたらどうだろう。
主人公の「私」は、病気を抱えている。
以前好きだったものも楽しめなくなっている。
街を歩いていても憂鬱で、かつて好きだった丸善に入っても気分が晴れない。
つまり「私」は、以前のように生きることができなくなっている。
言ってしまえば、
以前の自分から何かが欠けてしまった状態
そんな「私」が惹かれたのが、檸檬だった。
もし「lemon=欠陥品」という意味を重ねるなら、檸檬はまるで「私自身」のようにも見えてくる。
「私」は、完全なものではなくなってしまった自分と、どこか似ている檸檬に惹かれたのではないだろうか。
そして、もう一つの「Lemon」
ここで思い出したのが、米津玄師の「Lemon」だ。

この曲も、レモンという言葉をタイトルにしている。
そして、この曲の中心にあるのも「喪失」である。
大切な人を失った後、その人がいない世界を生きていく。
失ったものは戻ってこない。
それでも、その記憶を抱えながら生きていく。
ここで梶井基次郎の『檸檬』と重なる部分がある。
もちろん、二つの作品の内容は全く同じではない。
しかし、どちらにも共通しているのは、
「何かを失った人間」「何かが欠けてしまった」
と「レモン」が結びついていることだ。
『檸檬』の「私」は、健康や以前の自分、以前のように美しいものを楽しめる感覚を失っている。
「Lemon」では、大切な人を失った喪失が描かれている。
どちらも、何かを失った後の世界を生きている。
だから私は、「レモン」というものが、完全ではなくなった人間の象徴として見えてくる。
檸檬は「元に戻す」ものではない
さらに面白いのは、どちらのレモンも、失ったものを元通りにしてくれるわけではないことだ。
『檸檬』では、檸檬を手にしたからといって病気が治るわけではない。
丸善を出たあとも、現実そのものは変わっていない。
それでも「私」は、少しだけ爽快な気分になる。
米津玄師の「Lemon」も同じだ。
失った人が帰ってくるわけではない。
それでも、失ったものを抱えながら生きていく。
つまり、レモンは「失ったものを取り戻す魔法」ではない。
失ったものを抱えたまま生きるための何かなのではないだろうか。
本文では追い込まれた生活の中でも、
檸檬が【救い】として描かれている
だから「檸檬爆弾」が面白い

そう考えると、最後の「檸檬爆弾」も違って見えてくる。
「私」は、丸善という自分を憂鬱にさせる場所に、檸檬を置いていく。
そして、丸善が爆発することを想像する。
なぜ。丸善なのか

完成された美しいもの=丸善=本
不完全だけれど美しいもの=檸檬=主人公
という対比が作れる。
だから「私」が丸善に檸檬を置くことは、
「完成された美しさなんて
今の自分にはもう必要ない」
そういう意図があったのではないでしょうか
「何かが欠けている欠陥品」を表すと同時に
「欠けた美しさ」を象徴しているのかもしれません
そうすると檸檬が「欠陥品」でも綺麗に読めますね
今回は檸檬なぜレモンという考察でした!
わたしは普段、
絵本や小説の楽しみ方を紹介しています
