ゴールデンカムイが教える「不死身」の条件——倒れても立ち上がる人生戦略
こんにちは。腰ボロSEです。
明日3月13日、映画「ゴールデンカムイ 網走監獄襲撃編」が公開される。
原作は累計3,000万部を超える野田サトルの同名漫画。明治末期の北海道を舞台に、アイヌ民族から強奪された莫大な金塊をめぐって、三つの勢力が争奪戦を繰り広げる物語だ。
主人公・杉元佐一の異名は「不死身の杉元」。
今日はこの「不死身」について考えてみたい。
「不死身」の正体
杉元佐一は実際には何度も死にかけている。
日露戦争の激戦地・二〇三高地を生き延び、北海道ではヒグマに襲われ、銃で撃たれ、刃物で刺される。満身創痍だ。頬にも大きな傷がある。
それでも「不死身」と呼ばれるのは、「傷を負わないから」ではない。「傷を負っても立ち上がるから」だ。
これは物語の話だけど、僕はこの「不死身」の定義にとても惹かれる。
不死身 = 倒れないこと、ではない。
不死身 = 倒れても立ち上がること。
この違いは、人生を考えるうえでけっこう大事だ。
「倒れない人」と「立ち上がる人」
僕たちは普段、「失敗しない人」を強いと思いがちだ。ミスしない人、転職に失敗しない人、投稿して叩かれない人。
でもゴールデンカムイを読んでいると、「倒れない人」は一人も出てこない。
杉元は何度も血を流す。アシㇼパは父を失っている。土方歳三は戊辰戦争で「死んだはず」の男だ。鶴見中尉は脳の一部を損傷している。
全員、何かを失っている。何かが壊れている。それでも立ち上がり、自分の目的に向かって走っている。
これがゴールデンカムイの登場人物たちの魅力であり、同時に、僕たちが参考にできる生き方の構造だと思う。
「三つ巴」という構造が教えること
ゴールデンカムイのもうひとつの特徴は「三つ巴」の構造だ。
杉元一行、鶴見率いる第七師団、土方一派。三つの勢力が同じ「金塊」を追っている。
面白いのは、同じ宝を追っているのに、動機がまったく違うこと。
杉元は戦友の遺族のために金が必要。鶴見は北海道を支配する軍資金が欲しい。土方は蝦夷共和国の夢を叶えたい。
同じゴールを目指していても、動機が違えば物語はまったく別のものになる。
これ、人生にもそのまま当てはまらないか。
「副業で稼ぎたい」「ブログを書きたい」「転職したい」。同じ行動でも、動機が違えば続け方が変わる。そして続け方が変われば、たどり着く場所も変わる。
「ジャンル」を混ぜる勇気
ゴールデンカムイが3,000万部売れた理由のひとつは、「ジャンルの混ぜ方」だと思う。
この作品は歴史漫画であり、アクション漫画であり、サバイバル漫画であり、グルメ漫画であり、ギャグ漫画であり、アイヌ文化の啓蒙書でもある。
普通なら「どれかに絞れ」と言われそうなジャンルの混在。でもゴールデンカムイはそれを全部やる。そしてどれも手を抜かない。
アイヌ語・文化監修には北海道大学の中川裕教授と秋辺デボ氏がクレジットされている。狩猟の描写も、軍事の描写も、グルメの描写も、すべてにリサーチの厚みがある。
「何を書くか」より「どれだけ調べたか」が作品の強度を決める。これは野田サトルから学べる、創作者としての最大の教訓だ。
「何のために立ち上がるのか」
ゴールデンカムイの登場人物たちを見ていると、全員に共通していることがある。
「何のために闘うか」が明確だということだ。
映画のキャッチコピーがまさにこれだ。「誰が為に闘うか」。
杉元は戦友との約束。アシㇼパは父の真実。土方は明治に奪われた夢。鶴見は部下たちの遺骨を故郷に届けること。
動機が明確だから、倒れても立ち上がれる。
あなたがブログを書く理由は何ですか。小説を書く理由は何ですか。仕事を続ける理由は何ですか。
その答えが明確であるほど、あなたの「不死身」度は高い。
明日の映画を観る前に——あるいは観た後に。自分の「何のために」を、言葉にしてみてほしい。
さて、今日も物語を書きましょう。腰は壊しても、筆は折らない。
腰ボロ作家
