オタクは市民権を得たが、オタク仕草は市民権を得ていない
「映画ちいかわとライムスター宇多丸のせいで彼女と別れそう」というブログがTwitterで流れてきた。
「宇多丸男キツすぎてワロタ」とか「これは男が悪い」などという意見が多かったけど、読んでみたら自分も完全に男性側の思考だったのでウケた。
確かに、自認が宇多丸なのはキツイ。それはわかる。宇多丸がキモいのではない。自認・宇多丸になってしまっている一般男性がしんどい、という感覚は理解できる。
しかし、映画を見る前に予習したり、「誰かの評論を見て期待を高めてから観に行く」という行為は批判したくない。映画1本2,000円は、何本でも見放題のネトフリ月額料金と比べれば決して安くないから、彼は全力で楽しもうとしていたのだな、と私なら思う。
そんな風に言いつつも、自分は「初見の感想」を楽しみたい派のめんどくさいオタクなので、本当に好きなら絶対に宇多丸の評論を聞かずに劇場に行くし、確実に1人で観に行く。なぜなら「オタク」だから。
オタクという言葉がポピュラーになってから、評論や考察という行為が「光の趣味」のように扱われているが、本来、人様の作った作品を深読みしたり、読み解こうと思考を巡らせたりする趣味は、私が子供の頃は一般的にキモがられていたように思う。
もちろん当時だって評論はあったし、映画好きが細かな設定を探って深読みしたり、隠された意味を見つけ出す、みたいな趣味は当然存在していたけど、インターネットがそこまで普及していない時代、これらは「闇の趣味」として扱われていた。
ハリーポッターで言ったらスリザリン側であり、『ウェンズデー』のネヴァーモア学園、日本の学校で言うなら、グラウンドではなく美術室側の趣味。
(※私は大好きなんだけど、世間がそう扱っているという意味です。)
令和の世では、「私オタクなんです!」がポジティブな自己紹介になってきているし、「好きなものに詳しい人」は魅力的であるとされている。
でも、「作品について延々と考察する」「相手が求めていないのに解釈を語る」「評論家の批評を踏まえて作品を見る」「設定の整合性について何時間も話す」みたいな、オタクの生態そのものは、別に万人受けするようになったわけではない。
「オタク」は光の場所に出てきたかもしれないが、「オタク仕草」まで無条件に歓迎されるようになったわけではない。
オタクは市民権を得たが、オタク仕草まで市民権を得たわけではないのだ。
世間はそんなに優しくはないし、これは多様性が足りていないというより、我々(オタク)側の配慮が欠けてしまっただけだと個人的には感じている。
学校の校庭、太陽の下で育った人に、こちらの日陰の遊び方をそのまま持ち込んでも通じないことがある。そして、通じないこと自体は別に悪いことではない。そもそも俺たちは、ちいかわの感想を彼女に語る必要がないんだよ。面白かったらインターネットに書き散らかして、伝わるやつにだけ「デュフww理解(ワカ)ってるなwww」とか言ってニヤニヤしていればいいの。香ばしいブログ書いてニコニコしていればいいの。これは冷笑をしているのではない。住み分けているだけだと主張させてほしい。
一般人とデートするのに考察は不要。
……というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも相手がそれを求めていないなら、無理に披露する必要はない。
ましてデートなんだから「どうだった?」「可愛かったよねぇ」「また一緒に行こうねぇ」とか言ってれば良いのだ。2人で帰り道にちいかわに出てきた歌でも歌って帰るんだよ。今日の日は~さようなら~♬って歌いながら、手でも繋いで帰ればいい。映画デートっていうのは、映画がどうこうよりも、2人で共通の思い出ができたことを嬉しく思えば良いの。
セイレーンの考察とか、真の意味での“死”とは、とかは、1人でネットでやってればいいの。というか、そうするしかないの。泣 俺たちは一生、日陰側の趣味を自認しながら、人に迷惑かけないように生きていかなきゃなんないの。泣 語尾に泣とか笑とか付けて()の中に自分の感情書きこむタイプの我々は、暗くて狭いところに沈められてなきゃなんないの。人魚の肉食ってねぇーのによ!!そういう運命(さだめ)なんだよ!!
俺たちはちいかわ観てないでスターウォーズ観るの!この沼はいくら考察しても評論してもキモがられないから!ファンの年齢も層も分厚すぎて、必ず自分と同じ宗派があるから!ニワカならニワカなりに、ガチオタならガチオタなりに、世界中にファンがいるから絶対仲間が見つかるコンテンツ!そういう巨大な沼へ移住して、そのネットワークをベースにちいかわを語るんだよ。
というかそれは物のたとえであって、本当にスターウォーズへ移住する必要はないんだけどさ。ちいかわを死ぬほど考察したっていいんだけどさ。隠された伏線とセイレーンとはいったい何なのかについて3万字書いたっていいんだけどさ。それを彼女との映画デートで全部やる必要はないっていうことです。
作品を味わうことと、誰かと作品を見ることは別の遊びなんだよ。
映画を観ることと、映画デートは別の遊びなのだ。
映画を観る目的は作品を味わうことだけど、映画デートの目的は、好きな人と同じものを見て、同じ時間を過ごすことにある。
これは「考察はキモイ」でもないし、「考察はしてはいけない」でもないし、「女に考察は通じない」でもないんだよ。
あなたの考察や説明の仕方によって、相手が「そういう考え方もあるんだ」と思う場合もあるし、女性だって考察が大好きで1つの作品を掘り下げるのが幸せだ、という人だってたくさんいる。
たまたま今回の彼女がそういうタイプじゃなかっただけだと言いたい。
そしてそういう彼女のことを好きでいたっていいし、「この楽しみを共有できないのはキツすぎる」と言って別れたっていい。それこそ丁寧に説明すればいいのだ。仮に3万字の考察を書けるようなオタク人間だったのであれば、そういった自分の感情の言語化ができないわけがない。どの沼にも、沼の良さを理解している住人が必ずいるから、日向では彼女と「かわいかったね」と笑って暮らして、帰宅してからインターネットの沼でも海の底でも潜っていたらいい。そんなことを思った。
「作品を味わうことと、誰かと作品を見ることは別の遊び」と前述したが、これは私のもう一つの趣味である海外旅行にも同じことが言える。
私は一人で海外旅行をするのが大好きなのだが、人と海外に行くのももちろん好きだ。でも、それは全く別の競技だと思っている。
自分1人でいる時は興味の赴くままに好きな場所で好きなだけ滞在していていいし、1人で行ったスリランカでシーギリヤ・ロックに登った時は、通常2時間半で行って帰れると言われているところ、私は4時間半かけて登ってきた。
早朝5時から登り始めたせいで真っ暗な闇の中を一人でスマホのライト片手に歩き、野犬に追われ、猿に威嚇され、すべての罠(防衛のために迷路のように造られた道)を歩き、行き止まりになっている無駄な階段のすべてに登り、さんざんな目に合ったがめちゃくちゃ楽しかった。単騎・城攻め体験だ。
こんなことを誰かと一緒の旅行でやっていたら、普通に迷惑だしキレられるだろう。友達との旅行でこんなムーブをかましていたらグループラインから排除される可能性があるし、彼氏との旅行でこんな動きをしていたら「一緒に未来を歩む姿が考えられない」と言ってフラれると思う。
だからといって、一人旅をやめる必要はない。
オタク行為だって同じだ。
自覚をもって、人に押し付けず、理解し合える誰かと楽しくやっていればいい。マッチする相手と楽しめばいい。
考察が好きなら、考察が好きな人と朝まで語ればいい。一人で好きなだけ掘ったっていい。「かわいかったね」で終わりたい人とは、「かわいかったね」で帰ればいい。
好きなものを、好きなだけ深く愛することは、何も悪くない。
ただ、自分にとって最高の楽しみ方が、相手にとっても最高とは限らないだけなのだ。
オタクはもう、好きなものを隠して生きなくてもいい時代になった。
だからこそ今度は、楽しみ方を押し付けないことを覚えなきゃいけないのかもしれない。
日向では「かわいかったね」と笑って、
家に帰ったら一人でインターネットの海の底まで潜ればいい。
日陰の趣味には、日陰の趣味なりの楽しい暮らし方がある。
どっちが正しいとか、どっちが普通とか、そういう話ではない。
私は、スリザリンの中にあるネヴァーモア学園の美術室側のインターネットの片隅で、今日も楽しく生きている。それはそれでとても楽しいなと思うし、自分は日陰側のオタクなんだという自負を忘れずにありたいと思った。
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