『口笛吹きと音楽の犬』

大滝瓶太『口笛吹きと音楽の犬』読了。月並みな感想を書こうと思う。

https://shosetsu-maru.com/yomimono/essay/kuchibuefukito

なぜなら、大滝瓶太さんとはなんとなく気が合うからである。
以前ツイッターをやっていた時に、仲良くしてくれたし、作家仲間だと思っている。

実は僕自身もこれから三作ほど音楽小説を書くことが決まっているので、正当な評価はできないことを先に書いておく。
音楽をテーマとする以上、これはある程度、似た部分がある小説になってしまう。
となると、「僕はこう書かない」という思いが先立ってしまい、純粋な読書体験を邪魔してしまうのだ。


それ以上に困ったことに、僕の脳内には「僕が思い描く最強の大滝瓶太」という存在がいる。
これは『コロニアルタイムス』、これを改稿した『花ざかりの方程式』、『理系の読み方』『その謎を解いてはいけない』という大滝瓶太作品を読んで、気に入らない部分を切り離し、最高にいい部分(と僕が思っているもの)だけを培養した、ヴァーチャル・ビンタなのだ。
いうなれば、オーダーメイドの「ビンタ一番搾り」もしくは「エクストラ・ヴァージン・ビンタ」である。

このエクストラ・ヴァージン・ビンタは僕の想像の外には存在しない。
もちろん、本物の大滝瓶太さんとは似ても似つかない。
ゴジラとメカゴジラくらい違う。

こんなことを書くのはどうかと思うが、正直、他の人の小説を読んでも、面白いかつまらないかである。
つまらなければ、それまで。すぐに忘れるし、すぐに捨てる。
アメリカの現代音楽家、ガブリエル・カハネは音楽には二種類しかないと言っていた。曰く、GB or NGBである。
GBはgoose-bump、NGBはno goose-bump 、つまり鳥肌が立つか立たないかだと言うのだ。
おおむね同意である。

だが、そうではない作家というのが何人かいる。
「僕ならこの人には、こんなものを書いてもらいたい」という気持ちを抱かせてくれる作家で、大滝瓶太さんはその一人なのだ。
彼の小説は既存の型にはまってないのに、彼独自のスタンスがある。
彼の小説は台風みたいだ。
こちらに直撃するかもしれないし、勝手に変な方向に曲がるかもしれない。
強くなるかも、速くなるかも、遅くなるかも、さらには、立ち消えするかもしれない。
彼の小説をコントロール出来たら面白いだろうとさえ思う。編集者になりたい部分があるのかもしれない。

それがどういうことかと言うと、大滝瓶太さんの本を読んでいる時の僕はと、ても気持ち悪い読者になる。オペラ座の怪人みたいなキモイおっさんになる。

僕にとっての大滝瓶太さんの魅力は、「読者へのサービス精神の無さ」に起因する。
誰かを楽しませようなんて考えてない。何かを解き明かそうとしている。
解き明かそうとしている問いそのものさえも、別の問いから発生した何かであり、それを考えているうちに別の問いが現れたりする。そんな感じを受ける。思弁的、といえばそうなのだろう。
複雑に絡み合ったネックレスをほぐす作業のような文章だが、ちゃんとほぐれる保証はどこにもない。
「普通の感性」で作られた作品ならば、その解きほぐされたものをちゃんと展開して見せるだろう。
読者の注目はそこにあるのだ。この作業の先になにが待ち受けているのか、それを知るために読者はページをめくるのだから。

だが、瓶太さんはそれをみせない。もしくはそれをわざと隠す。それを冗談にしてしまうことが多々ある。非常に多い。(読者と接点をもつ方法が冗談になってしまっているのではないか? だとしたら、良いことではない)
読者の注目する存在そのものではなく、それが動いた軌跡だけを示すようなこともある。もしくは意固地に動かない。
大技を出してきたと思えば、見栄えが地味だったりする。
その道を知っていなければ、大技であることにさえ気が付かないかもしれない。
大滝瓶太さんはwriter's writerになってしまう可能性があると、僕は思っている。つまり、一般読者が好きな作家が好きな作家である。

それは『口笛吹きと音楽の犬』にもあてはまる。
これは青春小説だろうか。違うと思う。
これは音楽小説だろうか。ある程度はそうだ。
呪いと運命。人の業に関する物語ではないか。
自由意思よりも、決定論的な寂しさが見え隠れしている。
意思を発揮しようとすると、運命に足をすくわれる。
過去に存在した人物、関係性、行動が、現在の人物を動かす。

音楽がページを満たしているのにも関わらず、物語の軸になっているはずの曲が隠される。
無音が強調され、鳴っているのかの判断さえもつかない。
時空は捻じ曲げられ、物語をぐるりと一周して、キャラクター同士、その関係性が奇妙に重なり合う。
好きか嫌いかも分からない音楽に縛られ、おぎゃあと産まれ出たその延長で音楽が鳴っている。そこにあるのは音そのものではなく、表現とは何か、自分と表現との関係を考える人たちである。

自分の運命を切り開こうと戦う強さはない。
やんわりと受け入れるしかないのだ。
一人だけ切り開く力を持った人物がいるのだが、その一人はほとんど書かれない。
誰も強い意思を持っていない。自身の才能に打ちのめされた人物ばかりで、
誰かに引っ張ってこられただけの誰かなのだ。
世界大会で描かれるキャラは、偶然そこに導かれてしまっただけの人間で、
「世界一」という言葉に、虚しさがつきまとう。

だからこそ大滝瓶太が面白いのだが、この受動的な態度は大衆受けするものではない(と思う)。
音楽コンクールを書いた小説と言えば、すぐに思いつくのは恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』だろうが、ああいう真っすぐなものを期待してはいけない。

大滝瓶太を読むとき、何かを期待してはいけない。
なぜなら、それはあなたがまだ読んだことがないものだからだ。

ページをめくり、文字を追いかける。
読者の努力は報われなければならない。が、それは期待外れに終わる。
なぜなら、大滝瓶太に対する期待は間違った期待でしかないからだ。
鴨川の水、賽子の目、大滝瓶太の小説は、誰の意にも沿わない。

話は戻るが、僕の期待もやはり裏切られた。
僕の中のエクストラ・ヴァージン・ビンタの書く小説とは違う。
だから、次の小説を楽しみにできるのだ。










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