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欠如という光

連休の合間の静かな午前に、ふと思い立って学生時代の古いフォトエッセイを引っ張り出した。ページをめくれば、そこには今読むと赤面するほど青臭く、感傷的な言葉が並んでいる。しかし、その過剰なまでの自意識と、根拠のない理想の裏側にあったのは、むせ返るような「欲望」の気配だった。
翻って、今、塾の教室で向き合っている10代の姿はどうだろう。彼らの言葉遣いや身なりは驚くほど整っている。客観的に自己を見積もり、分不相応な夢を語ることも少ない。かつての私が抱えていたような「泥臭い欲望」は影を潜め、どこか透明で、過度に整った自己像がそこにある。この「欲望の希薄化」とも呼べる現状に、私たちはどう向き合うべきか。鳥羽和久氏の著作『それが優しさじゃ困る』の一節を道標に、教育の現場における「支援」の在り方を考え直してみたい。

「不安の投下」から「光の照射」へ
高校生の進路面談の時期、教室の空気は重くなる。三者面談を終えて教室に戻ってくる生徒たちの表情は、いつも一様に暗い。大人は良かれと思って、受験への危機感を煽り、自己肯定感の低さを責め、先回りして不安を植え付ける。「このままだと困るよ」という言葉は、安らぎを与えるどころか、生徒たちを不安の連鎖へと追い込んでいく。
鳥羽氏は指摘する。「他人から植え付けられた不安は、努力の燃料として質が悪い」と。
面談とは、本来「不安を投下する場」ではなく、生徒の中にある小さな期待や興味に「光を照らす場」であるべきだ。私たちは、彼らが「こうありたい」と願う自分本来の欲望を発掘する手助けをしなければならない。そのためには、即決を求めず、好きなものを起点に対話を重ね、情報という選択肢を投げ入れた後は、その発酵をじっくりと「待つ」姿勢が求められる。

欠如が育む内発的動機
なぜ、今の10代から欲望が見えにくくなっているのか。その一因は、皮肉にも大人による「与えすぎ」にあるのではないか。大人が先回りして道を整え、失敗の芽を摘み取ってしまうことで、何かが足りないという「欠如」の感覚が失われている。
私自身の経験を振り返れば、料理を始めるきっかけは、家庭内で自分の欲求が満たされないという小さな「欠如」にあった。また、ある卒業生は、厳しい家庭環境という大きな欠如を抱えていたがゆえに、自力で学費を捻出し、「やりたい仕事」と「高い収入」という複数の強い欲望を抱くに至った。
欠如や失敗、あるいは不登校やいじめといった「つまずき」を経験した生徒ほど、内発的な欲望が芽生えやすいという傾向は、現場にいても実感する。もちろん、生徒の安全や福祉を損なうことは論外だが、大人は意図的に「欠如」を残しておく勇気を持つべきだ。すべてをお膳立てせず、彼らが自ら手を伸ばさなければ手に入らない余白を残しておくこと。それが、彼らの生きる強さを信じるということではないだろうか。

意思決定を支える「視点」の提供
もちろん、欲望が芽生えるのをただ待つだけでは不十分だ。現代の複雑な社会において、自分の望む場所へアクセスするためには、具体的な「技術」が必要になる。
単に自分が好きな求める情報への検索ワードを教えるのではなく、いかにして生徒が見えていない選択肢に光を当てるか。内発的な動機が生まれたとき、それを具体的な行動へと繋げるための方法を知ることが、塾という場所の新たな役割となるだろう。
「欲望」とは、自分勝手なわがままではない。それは、自分がこの世界でどう生きていきたいかという切実な指標である。生徒たちが、大人から植え付けられた不安を燃料にするのではなく、自分自身の内側から湧き上がる「青臭い欲望」を誇れるように。私たちは、不安の伝播を断ち切り、希望と好奇心を共に探る対話を続けていきたい。
欠如を恐れず、待つことを厭わず。彼らの中に、欲望の灯がともるのを、私は静かに粘り強く見守っている。

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