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本音と建前までいけない無責任な大人のかくれんぼ

「本音と建前」という言葉がある。

大人になればなるほど、本音だけでは生きられなくなるらしい。
建前が必要になるのだと。

場を円滑に進めるために言葉を選ぶことや、衝突を避けるために少し丸めた表現を使う、そういう意味での本音と建前なら、まだわかる。

別にそれ自体を否定したいわけではない。

だが、組織で口に出されたり、耳にする場合、この言葉が妙な使われ方をし始める時がある。

「色々と調整や配慮も必要なので」
「スケジュールや雰囲気もあるので」

そんな言葉が並び始める。
ただ、不思議なことに、その本音も建前も最後まで見えてこない。

そもそも本音はどこにあるのか。
誰や何に向けた本音への建前として言っているのか。

その辺りも曖昧なまま、何となく存在しているその場の空気だけを気にし始める。

しかも、その空気にはまだ名前すらついていない。

実体のない何かに気を遣いながら、「積極的な議論をしていきましょう」などと言い始めるのである。

いや、無理だろう。

そもそもお前らの本音も建前も知らなければ、まだ聞こえてすらこない。


建前すら言えていないことに気づけていない

建前というのは、本来もう少し高度なものだったはずだ。

本音をそのまま口にすれば揉める、だから言葉を調整する。
多少の不満や矛盾を飲み込みながら、それでも場を前に進めるために使う。

少なくとも、「何を成立させたいのか」は存在している。
つまり建前といえど、それなりの意思(本音)が必要なのだ。

だが、世の中にはそこへ辿り着く前に「建前を使いこなしている風の大人」が大勢いる。

「空気感や雰囲気としては」
「現実的な部分もあり」

まるで、言い訳の煙幕である。

しかも本人たちは、その煙の量を社会性だと思っている節がある。
だが冷静に見ると、一瞬の靄でしかない。

建前とは仕方なさや曖昧さのことではなかったはずだ。

何を守りたいのかも、どうしたいのかも、誰が決めるのかも曖昧なまま、
とりあえず自分だけは爆発地点から離れようとしている。

そして厄介なのは、それを「大人の調整力」みたいな顔でやることだ。

ただ責任から距離を取りたいだけの言葉は、建前ではない。
もっと初期の生存反応である。

特にわかりやすいのが、「本音は別にあるんですけど」「建前としてはそうなんですが」などという言い回しだ。

この瞬間、その話が建前ではなく保身の段階にあることはほぼ確定する。

「本音は別にある」というのは、要するに、

「本質的な責任は私の手から離れた場所に置いておきますが、とりあえず体裁を保てるような会話だけを続けましょう」

という意味でしかないからだ。
なぜなら、本音がなければ建前はそもそも成立しないからだ。

だが不思議なことに、その別にあるという本音は、最後まで姿を現さない。

どこの誰の本音なのかもわからない便利な何かは、会議には参加しないし、責任も取らない。

本音は言う価値もないものしか持っていない

建前すら成立していない人たちを見ていると、そもそもの問題はもっと手前にあるのだろう。

本音の段階で、既に何もないのである。

本来、建前というのは調整後の姿だ。
まず本音がある。

「こうしたい」「これは問題だ」「このままではダメだ」「でもこのまま言うと揉める」という意思や判断がある。

だから削る、丸める、順番を変える、配慮する。
その結果として、「建前」が生まれる。

つまり建前というのは、本音を持っている人間の高度な編集作業なのだ。

だが、世の中には編集する原稿が存在しない人がいる。

あるのは、

「自分には関係ない」
「誰か決めてくれ」
「自分は悪くない」
「どうせ上が決めるだけ」

などの、小学生の言い訳みたいな破片だけである。

だから建前にもならない。
調整するほどの意思もなければ、表に出すほどの考えもない。

結果、「空気感としては」「現実的には」「色んな意見がありますので」という、煙だけを出す会議が完成する。

会議なのに、誰も何も決める気がない。
議論なのに、誰も何も背負っていない。
ただ、「自分が悪者にならずに時間を終えるゲーム」だけが進行していく。

そして、たまに誰かが指摘や苦言でもない、ただの事実を言う。

すると空気が凍る。

なぜか「言いすぎ」「強い」「本音が出た」みたいな扱いになる。
怖い話である、異世界に迷い込んだと思っても仕方がない。

事実を言っただけで本音をぶつけた人という扱いをされるのだ。

つまりその場は、事実と本音の区別すら崩壊している。
本音と建前を使い分けられるほど高度な場所ではない。

まだ「現実を見た人」が危険人物になるような次元なのである。

やっていることは責任からのかくれんぼ

本音もない、建前もない。

そんな場所で行われるものは、「空気を読む」などという高度なコミュニケーションではない。

もっと単純で原始的な何かである。

責任からのかくれんぼだ。

「温度感としては」
「現状のフェーズだと」
「色んな立場もあるので」
「慎重に進めたく」

誰の話なのか、何の意見なのかはよくわからない。
だが、とにかく空気がそう言っているらしい。

そして、この空気を発生させているのが、たいていその場の責任者なのも味わい深い。

本来なら、

「こう進めます」
「責任は持ちます」
「問題はここです」

と言わなければいけない立場の人間が、率先して空気側に回る。
すると会議は一気に霧が深くなる。

誰も断言しない。
誰も決めない。
誰も止めない。

しかもこの神、やたら曖昧なくせに発言力だけは強かったりする。

「空気的に違う」
「今それを言う感じではない」
「そういう話ではない」

などとすべてを支配している風に喋り始める。

だが不思議なことに、責任の話になると急に姿を消す。

誰が決めたのか。
誰が止めなかったのか。
誰が判断したのか。

そこになると、さっきまで会議を支配していた空気の神は露のように消えてなくなっている。

まるで、かくれんぼの途中に黙って帰る子供のようだ。
でもなにも終わったわけではない。

責任から身を隠すかくれんぼは、まだまだ続けていく。

かくれんぼは知らぬ間に終わっている

子どものころを思い出すと、かくれんぼという遊びはちゃんと終わらない。
鬼が全員を見つけるみたいな綺麗なフィニッシュはほとんどない。

隠れている途中で飽きて別の遊びが始まったり、誰かが親に呼ばれて帰ったり、鬼が途中で面倒になってどこかへ行ったりする。

隠れていた側だけが、ずっと物陰で息を潜めている。

そして気づく。

あれ、もう終わってないか? と。

今回の話も、少し似ている。

本音から隠れる。
責任から隠れる。
決断から隠れる。
社会人版のかくれんぼ、である。

しかもこの遊び、ルールがかなり終わっている。

全員が「自分は探す側です」みたいな顔をしているのに、同時に必死で隠れてもいるのだ。

誰も鬼をやらない。

責任者ですら、「空気的には」「現実的には」と言いながらロッカーの裏に隠れ始める。

だが、その間にも時間は進く。
問題は積み上がる、外部環境は変わる、限界は来る。

子供のかくれんぼなら、最後は親が「もう帰るよー!」と強制終了してくれたかもしれない。

だが社会では、そう都合よく終わらない。

業績悪化、人の離脱、炎上、事故、崩壊。
そういう形で、自分たちが招いた「もう終わりです」がやって来る。

つまり、現実の方が鬼なのである。
しかも現実は、空気を読まない。

「温度感としては」
「色々な立場も」
「慎重に進める必要が」

などと言っても普通に捕まえに来る。

当然である。
現実は、あのゴミのような会議に参加していないからだ。

その頃にはもう、あれだけ大量発生していた別にある本音も、空気の神も、綺麗さっぱり消えている。

残るのは、不都合な事実だけだ。

そんな個人的な本音を、建前として空気を読みながら調整して書いてみた。

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