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ミスをしていないつもりのマーケターが犯しているミス

マーケターをしていて、ミスが好きという人はいないだろう。
いや、マーケターでなくても、ミスを好んでしたい人はあまりいない。

だが、マーケティングの仕事は特に不確実性の塊だ。

仮説が外れることもある。
施策が失敗することもある。
想定していなかった結果になることもある。

そんなものは日常茶飯事だ。
つまり、ミスは避けて通れるものではない。

しかも、十分な分析を行い、適切な手順を踏み、確度の高い判断をしたとしても、絶対に成功する保証はない。

だからこそ、マーケターにはミスを正しく理解する力が求められる。

どのミスを恐れるべきなのか。
どのミスを分析するべきなのか。

そして、どのようにミスと向き合うべきなのか。

このあたりを見誤ると、ミスと妙な関係性のマーケターが生まれてしまう。


ミスを恐れる方向を間違えている

ミスを恐れること自体は悪いことではない。
誰だって自分がしたことに、ミスが起きてほしいとは思わない。

だが、何をミスだと考えているかで話は変わる。

マーケターなのに、

会議で変なことを言いたくない。
提案したものの責任を持ちたくない。
上司に詰められるようなことはしたくない。
仕事ができないと思われることはしたくない。

そんなことばかりをミスと考えている人がいる。

本来の仕事以外の部分に関しては、実に繊細である。
買ったばかりの卵の方が、まだ雑に扱われている。

もちろん本人は慎重なつもりだ。
ミスを避けているつもりでもある。

だが、その時点で恐れているものがもう違う。

マーケティングの仕事は、
顧客を理解し、仮説を立て、判断し、成果に責任を持つことである。

会議で少し気まずくなったとしても、正論で上司の機嫌を損ねたとしても、
それはマーケティングのミスではない。

マーケティングの仕事をしているはずなのに、成果よりも空気を読むことに全力を注いでいるとミスの方向性がブレていく。

当然ながら、こうなると本質的な仕事は後回しになる。

仮説を外すことよりも、発言を外すことが怖い。
成果を逃すことよりも、評価を落とすことが怖い。
顧客を見誤ることよりも、上司の意向を見誤ることが怖い。

これではマーケティングではなく、保身の最適化である。
しかも、こうした人が増えると個人の問題では終わらないことだ。

組織全体が同じ方向を向き始める。

成果に対するミスよりも、社内で目立つミスの方が重罪になる。
顧客を間違えることよりも、上司を間違えることの方がリスクになる。

つまり、マーケティングの業務線上のミスではなく、ちっぽけでどうしようもない社内政治のミスを恐れるようになる。

すると誰も判断しなくなる、誰も責任を取らなくなる、誰も戦わなくなる。

顧客のことも、市場のことも、競合のこともよく分からない。

ミスが起きないというよりも、何も起きないマーケ組織の出来上がりだ。

ミスの階層や種類の分析を間違えている

ミスを恐れる方向を間違えるだけでも厄介だが、さらに厄介なことがある。

ミスそのものの見方を間違えていることだ。

例えば、広告の成果が悪かったとする。

すると、

クリエイティブを変えよう。
コピーを修正しよう。
LPを改善しよう。
配信設定を見直そう。

そんな話が始まる。
もちろん、それ自体は悪くない。

だが、それは本当にミスの原因なのだろうか。

そもそも顧客理解がズレていたのではないか。
市場認識が間違っていたのではないか。
ターゲット設定がおかしかったのではないか。
あるいは、最初から筋の悪い雑な判断だったのではないか。

本来であれば、こうしたところまでミスの階層を掘り下げる必要がある。

ところが、多くの組織ではそこから急に掘削作業が止まる。

急に地面が固くなったわけではない。
掘ると偉い人が出てくるからである。

予算を決めた部長、方向性を決めた役員。
昔から続いている謎の方針、誰も説明できない伝統。

そのあたりにスコップが近づいた瞬間、分析は驚くほど慎重になる。

まるで遺跡調査である。

触るな、壊すな、現状維持だ。
場合によっては、見なかったことにして埋めろ、ってことすらある。

だが、組織でうまいことやっていくという考えがあったり、
その前提に考えもなく乗れる人間は、それに慣れていく。

本当は、判断がおかしいと分かっている。
本当は、前提条件がおかしいと分かっている。
本当は、戦略がおかしいと分かっている。

だが、それを言うと面倒なことになる。
だから、誰かの都合が乗ったうえでの分析になる。

当然ながらこの制御がされている中では、

分析しているのに本質へ近づかない。
振り返っているのに何も変わらない。
改善しているのに成果が出ないことになるのは、当然である。

ミスの原因ではなく、原因以外の都合を探しているのだから。

ミスしていないつもりでミスし続けている

ここまでくると、ミスとの関係性はかなり複雑になる。

本人はミスを嫌っている。
ミスを避けようともしている。
ミスをしないよう慎重に振る舞っている。

それなのに、実際にはミスをし続けている状態になっている。

なかなか芸術的な状態である。
普通はどこかで気付きそうなものだが、案外そうでもない。

なぜなら本人が認識しているミスと、実際に起きているミスが違うからだ。

会議で怒られなかったから、ミスではない。
上司に詰められなかったから、ミスではない。
無難に資料を作ったから、ミスではない。
誰とも対立しなかったから、ミスではない。

本人の中では実に平和な一日である。

だがその裏で、

顧客理解は浅いまま、改善も中途半端。
仮説は立たないまま、判断は先送り。
成果への責任は曖昧なまま、問題は放置。

こうしたミスが、静かに毎日のように積み上がっている。

だが本人は気付かない。
これらをミスだと思っていないからだ。

それどころか、問題なく仕事ができていると評価している場合すらある。

恐ろしい話である。

借金が増え続けているのに、
請求書を見ていないから黒字だと思っているようなものだ。

もちろん現実はそんなに優しくない。
本質的な問題から目を逸らし続ければ、そのツケはどこかで回ってくる。

そしてその時になって初めて、なぜこうなったのかという会議が始まる。

だが、本当は突然起きたことではない。
何年も前から起きていた。
ただ認識していなかっただけだ。

もっと言えば、認識したくなかっただけかもしれない。

ミスを恐れる人は多い。
だが、本当に恐ろしいのは、ミスを認識できなくなることだ。

認識できないミスは分析されない。
分析されないミスは改善されない。
改善されないミスは蓄積する。

そしてその状態こそが持続したミスである。
蓄積したミスは、いつかまとめて請求に来る。

世の中は案外よくできている。
見ないふりをしていた問題ほど、後から大きな顔で再登場してきたりする。

ミスを見極めて正しく向き合えているか

ミスをなくすことはできない。
少なくともマーケティングの仕事では無理だろう。

顧客も市場も競合も変化する。
不確実性の中で判断する以上、仮説が外れることもある。

だから重要なのは、ミスをしないことではない。
どのようなミスなのかを見極めることだ。

認識のミスなのか。
判断のミスなのか。
行動のミスなのか。
単純な実行ミスなのか。

さらに言えば、そのミスを本当に見ようとしているかも重要だ。
ミスを分析しているようで、実際にはミスから逃げてはいけない。

マーケティングに限らず、成長する人や組織には共通点がある。

ミスをしないことではなく、ミスを認識できることだ。
そして、認識したミスと向き合えることだ。

もちろん、組織全体のミスまで、個人がどうにかできるとは限らない。
むしろ、どうにもならないことの方が多い。

誰が見てもおかしい方針。
誰も責任を取らない構造。
分析より空気を優先する文化。

そういうものは、個人が頑張ったところで変わらないこともある。

だが、自分の仕事の範囲にあるミスは別だ。
少なくとも、自分が担当している領域で何が起きているのか。

何を間違えたのか、何を見落としたのか。
そこから逃げないことはできる。

そして、それを続けていると不思議なことが起きる。
自分のミスだけでなく、組織全体のミスも見えるようになる。

誰が悪いという話ではない。

どこで判断を間違えているのか。
どこで認識が歪んでいるのか。
どこで分析が止まっているのか。
そういう構造が見えてくる。

その時に初めて考えればいい。

この場所で戦い続けるのか、改善の余地があるのか。
それとも、別の場所へ向かうべきなのか。

ミスは避けるものではない、受け止めて分析するものだ。

そして分析とは、
他人を責めるためではなく、現実を正しく認識するためにある。

それができるようになれば、ミスとの付き合い方も変わる。
仕事との向き合い方も変わる。

もしかすると、働く場所そのものとの向き合い方も変わるかもしれない。

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