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何も証明していない役職者の、どこを信じられるの?

中途で役職者が入ってきた瞬間。
あるいは、社内で誰かが抜擢された瞬間。

なぜか人は、その相手を「優秀な人」として自動的に扱い始める。

「前職で実績があるらしい」
「会社が選んだ人だから」
「役職者なんだから能力はあるはず」

まだ何も見ていない。
成果も、判断も、責任の取り方も確認していない。

それでも、多くの組織では肩書きが付いた瞬間に、優秀な人という設定だけ先に共有される。

本来、役職とは「責任」や「役割」の話でしかない。
能力や人格の証明書ではない。

なのに、肩書きを見た瞬間に思考停止し、無条件に信じ始める人がいる。
そして、まだ何も証明していないのに、その空気の上で偉そうに座り始める人もいる。

冷静に考えると、かなり不思議な文化だ。
なぜ証明されていないものを疑問を持たずに信じることができるのか。


証明されていないものを信じる道理がない

自分は、役職者や経営者というだけで、その人を優秀だと思わない。

もちろん、役割としては尊重する。
その役職に至るまでに成果や能力があった人もいるだろう。
ただ、それは確認されるべきことであって、自動的に信仰されるものではない。

証明がされるまでは、「その役職の人」というだけの話だ。

能力があるか。
責任感があるか。
判断できるか。
都合が悪い時に逃げないか。

そんなものは、実際に見ないとわからない。

だから、まだ何も証明されていない段階で、
「優秀な人なんだろう」と信じる道理が、自分にはよくわからない。

もちろん、証明されれば話は別だ。
そういうものが見えた時に、自分は尊敬するし、
「この人は役職者として優秀なんだな」と判断する。

自分は、立場ではなく中身を見ている。
やるべきことをちゃんとやっているか。
言っていることと、やっていることに筋が通っているか。

結局のところ、見ているのはそこだ。

役職というわかりやすい名札が付いただけで、
「この人は優秀なんだ」と無条件に受け入れるほど、
自分は素直でもなければ馬鹿でもない。

無条件に信じる側にも問題がある

組織が連れてきた。
会社が抜擢した。
役職が付いている。

それだけで「優秀な人なんだろう」と受け入れてしまうのは、
結局のところ、思考停止や盲信だと思う。

本来、評価とは検証されるべきものだ。

実際に成果を出しているのか。
責任を負っているのか。
判断に筋が通っているのか。

そういうものを見て、初めて評価は成立する。

なのに、多くの組織では肩書きだけで評価が先に完成する。

しかも不思議なのは、その評価を無条件に受け入れる人ほど、
自分が評価されない側に回った時は納得していないことだ。

「自分は正当に評価されていない」
「上は現場を見ていない」
「なんであいつが抜擢されたのか」

そうやって不満を言う。

つまり、自分が下に置かれる評価は疑うのに、
上に置かれた人間への評価はなぜか無条件で受け入れている。

かなり無責任で、矛盾した態度だと思う。
そして、この空気は組織を悪くする。

試されない役職者は、責任を負わなくなる。
検証されない権威は、簡単に腐る。

何も証明していないのに優秀扱いされる環境では、
「やる必要」がなくなるからだ。

結果として残るのは、肩書きだけをぶら下げたお飾りの役職者である。
そして、それを無条件に受け入れる側もまた、その組織が悪くなることに加担している。

証明が不要なら、やらないで居座り続ける

人は、証明しなくても評価される環境では、わざわざ証明しなくなる。
これは別に役職者に限った話ではない。

何もしなくても褒められる。
成果がなくても立場が守られる。
責任を取らなくても権威だけは維持される。

そんな環境なら、多くの人は少しずつ腐る。
そして実際、役職者というのは証明しなくても成立しやすい立場でもある。

メンバーをまとめている。
調整している。
会議をしている。
意思決定している。

一見すると仕事をしているように見える。
でも、その多くは独力で成果を出しているわけではない。

組織の成果。
現場の頑張り。
市場環境。
部下の能力。

役職者は構造上、自分だけの実力が見えにくい。
見えにくいということは、言い訳もしやすいということだ。

うまくいけば自分の手柄。
失敗すれば現場、人材、市況、予算、会社、タイミングのせいにできる。
しかも厄介なのは、多くの役職者は組織上層部によって連れてこられたり、任命されることだ。

つまり最初から、「この人は優秀な人である」という前提付きで組織に配置される。

だから試されない。
いや、正確に言えば、試したくない。

もし無能だった場合、それは本人だけの問題ではなく、
「任命した側の判断が間違っていた」という話になるからだ。

だから組織は、見えている問題を見ない。
その結果、何も証明していない役職者が、肩書きだけで居座り続ける。

試されない役職者は、証明をしない。
そして、いよいよ誤魔化せなくなった頃には、別の組織へ移っていく。

驚くほど何も残していないのに、肩書きだけは立派なまま。
そんな役職者が、世の中でわりと回っている。

曖昧な評価より、証明しているかどうか

結局、自分は「誰かの評価」そのものをそこまで信用していない。

組織の評価。
肩書き。
周囲の評判。
あの人は優秀らしい、という空気。

そんなものは、驚くほど曖昧だ。

実際、何も証明していないのに優秀扱いされる人もいる。
逆に、証明しているのに正しく扱われない人もいる。

だからこそ、重要なのはどう評価されているかではなく、何を証明しているかだと思う。

自分の力で結果を出しているのか。
客観的に成果と言えるものがあるのか。
一般的に見ても、成立している仕事ができているのか。

そこから逃げずに働いているか。
結局、信頼とはその積み重ねでしかない。

そして、本来は他人に証明を求める側も、自分自身が証明する側でなければならない。

何も証明していない。
でも評価されたい。
でも役職者には責任を求める。
でも自分は結果で見られたくない。

それはさすがに都合が良すぎる。
他者を疑うなら、自分もまた試される側であるべきだ。
「自分は何を証明しているのか」そこから逃げずに働くしかない。

そして、もし証明しているのに不当に扱われるなら、
その場所を去ればいい。
見る目がない、適切な評価をできない組織は恐ろしく多い。

去るのは怖いし、負けたように感じるかもしれないが、少なくとも、
何も証明していないのに優秀な人扱いだけされながら居座る人より、
よほど健全だと自分は思う。

肩書きや空気ではなく、結果や責任で立っている人間のほうが、
ずっと信用できるし、その方が胸を張れるのではないだろうか。

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