ショートショートホラー「ヤニ人間」
「火、貸してくれませんか」
知らない男の人に恐る恐る声をかけた。周りはみんな電子タバコで、紙巻きを吸っているのはこの人しかいなかった。私のライターは運悪くオイル切れで、火打石を回しても燃え尽きた線香花火のような火花を散らすだけ。男の人は「どうぞ」と、ジッポを差し出してきた。ひんやりとした感触も相まって、炎天下の喫煙所でオアシスに出会ったようだった。
お礼を言ってジッポを返し、ふーっと煙を吐くと、汗ばんだ顔の皮膚に煙がまとわりついてきた。この後は家に帰ってシャワーを浴びて泥のように眠ればいい。最高の夜勤明けだ。「うまいですか」。男の人がこっちを見ていた。笑顔を向けて返事に替える。男の人は続けた。「良かったです。私、家じゃタバコを吸えなくて」。家族がうるさいのだろうか。そういえば、短パンによれよれのTシャツにサンダル、庭先に出るような格好だ。「この辺に住んでるんですか」と聞くと、それには答えずに、話を始めた。
「私、宝くじが当たったんです」。ほう。「億です。一等の」。なんと。「それがサラリーマンの生涯賃金を超えてるって分かって、仕事辞めたんです」。それはそれは。「妻と息子と娘がいて」。いいですね。「それがそうでもないんです」。はあ。「子どもたちに、胸を張れないんです。宝くじが当たっちゃったばっかりにプー太郎になってしまって。社会のこととか人生のこととか、何も教えてやれないんです」。なるほど。「笑いごとじゃないんです」。じゃあ仕事したらいいじゃないんですか。「宝くじが当たった時は子どももまだ小さくて、妻も大喜びで、薔薇色の人生が見えていたんです。でも、それからもう10年も経って、今更働けないですよ。息子にお父さんなんでいつも家にいるのって聞かれるようになって、なんて答えたらいいか分からなくて、ここにタバコを吸いに来ているんです。あなたも気を付けた方がいいですよ。お金はやっぱり、もらうものじゃなくて稼ぐものだ」。そういうものなんですね。「はい。家庭内に居場所がなくなるほどつらいことはないです」。まあ、そうですね。「そうです。なので…」
灰皿に落とすタイミングを失ったタバコが指に挟まれたまま沈黙している。口をつけて吸ってみても、焦げ臭いだけだ。人混みをかき分けて灰皿に投げ入れる。振り返ると、煙で霞む視界に男の人を見つけることはできなかった。半透明の壁が、汚い私たちを世界から切り取っている。セミの鳴き声がやかましい。
