『四つの顔』「わかば」#5
【わかば #5 】
付き合っていた男と別れた…という、
「悲しい」出来事が起こった彼女を、
「気晴らし」に、六本木の「サントリーホール」へ、
クラシックコンサートの演奏会へ、
いっしょに出掛けることにした。
わたしは「エスコート役」に徹する。
「レディ・ファースト」である。
まるで「執事」であるかのように、
彼女のために「扉」を開けて、
彼女のために「椅子」を引く。
さすがに「エスコート役」なので「配膳」まではしないが…
ワインは、わたしが、グラスへ、
ゆっくりと、彼女のためにボトルから注ぐ。
食事の注文も、彼女の趣味は知り尽くしているので、
わたしが、すべて行った。
ただ、そこに、すわっているだけで、
すべてが、あたりまえのように、しつらえられるように、
身の回りを、喫茶、食事、全て、整えた。
彼女の来ている「服」のそれ以外は…。
今回の曲目、そのメインは、
チャイコフスキーの「悲愴」である。
彼氏と別れて、心の内に「悲しみ」を内包させ、
それを感情的に、まだ表出できないでいる本人には、
芸術による「カタストロフ」が必要なのではないか?
そう、ふと、おせっかいだが、わたしは発案した。
涙を流させるための「音楽」。
恋の痛手に「浸る」ための「音楽」。
過去の「恋」を美しい「思い出」だけにするための「音楽」。
コンサートホールの座席は、1階、中央、前列真ん中の、
いちばん交響曲の音響が「バランス」よく耳元に入って来る…
そんな「特等席」をリザーブした。
出入りは、少し面倒だが、実際に「演奏」が始まって「曲」に意識が集中してしまえば、
これほど恵まれた座席も、めったにあるものではない。
ここに座ることを経験してしまったら「2階席」を選ぶことなど、今後、毛頭、考えられなくなることだろう。
生演奏のコンサートは、コンサートホールの「音響」、その建築設計による影響も受けるが、やはり「座席」の優劣は、それでも「建築設計」だけでは「かばいきれない」問題として残る。
「どこに座るか?」によって、まったく「違う」コンサートになってしまう…ということを意味しているのである。だからこそ、あれほど「チケット」の価格が「違う」のだが、その「同一価格」のなかでも、さらなる「違い」がある。そこは「知る人ぞ知る」世界である...。
今回、座性は「一流」、そして「音響」も「一流」の「サントリーホール」である。こうなれば「演奏」は、正直「3流」でも問題ではないな…と割り切った。何よりも「曲目」を優先した。客人である「わかば」の失恋の「痛手」が、今回のメインテーマなので、チャイコフスキーの「悲愴」さえ演奏してくれるのであれば、どこの楽団でも、多少、マイナーでも、よしとしよう…それが、わたしの着地点だった。
コンサートホールの座席に、2人で座って、パンフレットを見ながら、はじめて「悲愴」を聞く彼女に、曲についてザックリと説明しているうちに、客席から拍手が鳴り始めた…指揮者が会場に入ってきたのだ…いよいよ演奏がはじまる。わたしの「目当て」は、できるだけ上質な「第3楽章」、そして本来の目的は「第4楽章」のメロディーによって、その「調べ」が、クラシックを、さほど知らない「わかば」の心に、失恋の痛手を、その「悲愴」を「共感」とともに実感できる「なにか」が、彼女の「心」に何を残すのか、否か?それが「すべて」であった。
第4楽章、曲も終盤にさしかかったとき、わかばの頬には、一筋の涙が、流れ落ちていた。それを、そっと、何気なく、彼女は、指先で、何度か、ぬぐっていた。
わたしの「コンサート」は、無事、成功に終わったようだった。
あとで「わかば」に、こう言われたのが、今でも記憶に新しい…。
『わたしを泣かしたくて、ここに連れてきたんでしょう!』
美しい女性の流す、感動の涙ほど、傍から眺めていて望ましい光景は稀である。わたしは、その「光景」が見たいがために、彼女を、ここに呼んだのである。
彼女との「クラシックコンサート」は、今回が、はじめてではない。
わたしは、ひとり、さびしく音を満喫するのも「嫌い」ではないが、
「わかば」のような「華」のある相手をエスコートして、
2人して、コンサート会場を訪れることができる「優越感」も決して「嫌い」ではないので、なにかしら「チケット」が入手できて、彼女のスケジュールが合えば、いっしょに「同伴」を、付き合ってもらってきた経緯はあった。かれこれ、10回以上は、こうして一緒に、クラシックの曲目を堪能しに来ている。
いつも決まって、彼女は、シーンズと、Tシャツという「ラフ」な、学生さんっぽい「出で立ち」なので、わたしも彼女に合わせて、普段着にて会場には来るようにしていた。
懐かしい「思い出」としては、かつて、バッハの「ヨハネ受難曲」をご一緒した時には、そもそも「キリスト教」の素養が全くない彼女に、コンサートが始まる直前の30分で「ヨハネ福音書」の「キリストの受難」に関する記述箇所について、わかりやすく、手短に説明する必要があったので、わたしは「フーテンの寅さん」風に『よってらっしゃ、見てらっしゃい…』と、即興で、キリストがゲッセマネの園で捕縛され、十字架に掛かるまでを「バナナの叩き売り」よろしく、テンポよく説明していたら、「わかば」だけに説明していたのに、話が終わるころには聴衆が15人ほどに増えていて『めでたし、めでたし…』で締めくくったころには大勢から「拍手」が沸き起こった…という珍事もあった。
「ヨハネ受難曲」での「ドイツ語」のセリフが「邦訳」されて「プロジェクター」で会場に映し出されている「仕組み」だったので、わかばも、わたしの「寅さん風」による「解説」後だったこともあり、苦労せずに理解でき、音楽の「調べ」に集中できたようだった。まったくもって「めでたし、めでたし…」である。
あとは「ピアノ」のソロリサイタル、「バイオリン」のソロ…東京都内にある「小ホール」も含めて、音響設備の優れたコンサートホールは、ほぼ、網羅して、行き尽くしたのではないかと思う。
わたしは、わかばを、たんなる「愛人」として「遇する」のではなく、まだまだ彼女が20代と若く、音楽と云えば「UKロック」しか知らないのもあったので、本人の「情操教育」のため、クラシック音楽という「環境」を与えようと努力している矢先だった。
芸術的な「感性」は、若い頃に身に付けないと「とうが経って」からでは、それを吸収できる柔軟性を心が失ってからでは、「時すでに遅し」なので、20代前半という彼女の年齢は、まだ「ギリギリ」間に合う…そんなタイミングだと、わたしは、出会った当初に、感じていた。
わたしは、わかばにとって「通りすがり」の、ひとりの「大人」でしかない。やがて、彼女の前から、遅かれ、早かれ、姿を消す身の上である。
そんな私がしてやれるのは、彼女にとって「一生の財産」となるような「経験」を残してあげられることだけ…それだけである。
それは「セックス」という肉の快楽ではない。
所詮は、肉体的な刺激は、脳が、その場だけで感じる「一過性」のものでしかない。
これに引き換え、芸術を通じた「文化的」な経験は、本人の「感性」に残れば、一生、消えないで、彼女の…時として、生きる「支え」となって残ることだろう。わたしは、それをこそ、彼女に残したい、与えたいと、強く欲して止まなかった。
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