見出し画像

【短編小説】水たまりに映らなくなった日

「水たまりの不思議な話、聞く?」

雨上がりの帰り道、智紀ともきが急に真面目な顔で言った。

「怖い話なら、やだよ」

僕が顔をしかめると、
智紀は首を振る。

「違う。ちょっと不思議な話」

智紀が言うには、
雨上がりの夕暮れ、
紫色とオレンジ色が溶け合ったような水たまりだけは、
未来の自分を映すという。

「そんな水たまりは、見たことないもん」

智紀は得意げに眼鏡をかけ直して言った。

「だから、見つけた人だけなんだって」

その日はもう夜空が広がり始めていて、
そんな水たまりはどこにもなかった。

それを見つけたのは、
台風が通り過ぎた翌日のことだった。

一人で歩いていると、
道の端に不思議な色をした水たまりがあった。

夕焼けとも違うし、空の色とも違う。

紫色とオレンジ色が、静かに溶け合っていた。

胸が少しだけ高鳴る。

恐る恐るのぞき込むと、映っていたのは僕だった。

「なんだ……」

安心して立ち去ろうとした、
その時だった。

水面の中の僕だけが、
まだ動いていない。

よく見ると、
背中にはバドミントンのラケットを背負っていた。

その頃の僕は、
公園で遊ぶくらいで、
まだバドミントンなんて始めてもいなかった。

中学生になった僕は、
なぜかその光景を思い出し、
バドミントン部へ入った。

夢中で練習を続け、県大会へ進むまでになった。

ある日の部活帰り。

また、あの水たまりを見つけた。

今度は少し大人になった僕が、
真っ白な雪山に立っていた。

高校へ進学した僕は、
不思議と競技スキーに惹かれた。

大学でも競技を続け、
毎日雪の上を滑った。

可愛い彼女と腕を組んでいる自分。
メダルを掲げている自分。

振り返れば、
水たまりに映った未来は、
いつも現実になっていた。

ーーあの水たまりは、良い未来を映すんだ。

いつしか僕は信じていた。

大学の帰り道。

久しぶりの雨上がりだった。

胸騒ぎがして、
あたりを見渡す。

そして見つけた。

あの紫色とオレンジ色の水たまりを。

息をのんでのぞき込む。

――何も映っていなかった。

恐怖の向こうに、
空だけが静かに揺れていた。

僕の姿は、
どこにもなかった。

胸が締めつけられる。

ーー未来がないのだろうか。

ーー事故に遭うのだろうか。

何をしても怖くなった。

競技にも集中できず、
恋人とも別れ、
心は少しずつ沈んでいった。

智紀は留学中で連絡がつかない。

一年ほど経った頃、
ようやく智紀の実家へ電話をかけた。

出たのは祖父だった。

事情を話すと、
祖父は静かに笑った。

「ああ、その話なら知っているよ」

僕は思わず身を乗り出す。

「映らなかったんです。未来が消えたんです」

祖父は、
やさしい声で言った。

「大丈夫。違うよ」

「え?」

「映らなくなったんじゃない」

少し間を置いて、
祖父は続けた。

「君が、ようやく未来になったんだよ。」

意味がわからず、
黙っていると、
祖父は穏やかに言った。

「あの水たまりが映すのは、
まだ歩いていない人生だけなんだ」

電話を切ったあと、
僕はしばらく雨上がりの道を歩いた。

足元には、
いくつもの水たまりが空を映していた。

その中に、
あの不思議な色はもうなかった。

けれど、
不思議と探そうとは思わなかった。

未来はのぞき込むものではなく、
一歩ずつ歩いていくものなのだと、
ようやくわかった。

それ以来、紫色とオレンジ色の水たまりを、
僕は一度も見ていない。

水たまりは、未来ではなく、
まだ歩いていない人生だけを映していたのかもしれない。


✳︎シロクマ文芸部
✳︎お題「水たまり」からはじめるnote企画
参加させていただきました!


いいなと思ったら応援しよう!