【短編小説】水たまりに映らなくなった日
「水たまりの不思議な話、聞く?」
雨上がりの帰り道、智紀が急に真面目な顔で言った。
「怖い話なら、やだよ」
僕が顔をしかめると、
智紀は首を振る。
「違う。ちょっと不思議な話」
智紀が言うには、
雨上がりの夕暮れ、
紫色とオレンジ色が溶け合ったような水たまりだけは、
未来の自分を映すという。
「そんな水たまりは、見たことないもん」
智紀は得意げに眼鏡をかけ直して言った。
「だから、見つけた人だけなんだって」
その日はもう夜空が広がり始めていて、
そんな水たまりはどこにもなかった。
◆
それを見つけたのは、
台風が通り過ぎた翌日のことだった。
一人で歩いていると、
道の端に不思議な色をした水たまりがあった。
夕焼けとも違うし、空の色とも違う。
紫色とオレンジ色が、静かに溶け合っていた。
胸が少しだけ高鳴る。
恐る恐るのぞき込むと、映っていたのは僕だった。
「なんだ……」
安心して立ち去ろうとした、
その時だった。
水面の中の僕だけが、
まだ動いていない。
よく見ると、
背中にはバドミントンのラケットを背負っていた。
その頃の僕は、
公園で遊ぶくらいで、
まだバドミントンなんて始めてもいなかった。
中学生になった僕は、
なぜかその光景を思い出し、
バドミントン部へ入った。
夢中で練習を続け、県大会へ進むまでになった。
◆
ある日の部活帰り。
また、あの水たまりを見つけた。
今度は少し大人になった僕が、
真っ白な雪山に立っていた。
高校へ進学した僕は、
不思議と競技スキーに惹かれた。
大学でも競技を続け、
毎日雪の上を滑った。
可愛い彼女と腕を組んでいる自分。
メダルを掲げている自分。
振り返れば、
水たまりに映った未来は、
いつも現実になっていた。
ーーあの水たまりは、良い未来を映すんだ。
いつしか僕は信じていた。
◆
大学の帰り道。
久しぶりの雨上がりだった。
胸騒ぎがして、
あたりを見渡す。
そして見つけた。
あの紫色とオレンジ色の水たまりを。
息をのんでのぞき込む。
――何も映っていなかった。
恐怖の向こうに、
空だけが静かに揺れていた。
僕の姿は、
どこにもなかった。
胸が締めつけられる。
ーー未来がないのだろうか。
ーー事故に遭うのだろうか。
何をしても怖くなった。
競技にも集中できず、
恋人とも別れ、
心は少しずつ沈んでいった。
智紀は留学中で連絡がつかない。
一年ほど経った頃、
ようやく智紀の実家へ電話をかけた。
出たのは祖父だった。
事情を話すと、
祖父は静かに笑った。
「ああ、その話なら知っているよ」
僕は思わず身を乗り出す。
「映らなかったんです。未来が消えたんです」
祖父は、
やさしい声で言った。
「大丈夫。違うよ」
「え?」
「映らなくなったんじゃない」
少し間を置いて、
祖父は続けた。
「君が、ようやく未来になったんだよ。」
意味がわからず、
黙っていると、
祖父は穏やかに言った。
「あの水たまりが映すのは、
まだ歩いていない人生だけなんだ」
電話を切ったあと、
僕はしばらく雨上がりの道を歩いた。
足元には、
いくつもの水たまりが空を映していた。
その中に、
あの不思議な色はもうなかった。
けれど、
不思議と探そうとは思わなかった。
未来はのぞき込むものではなく、
一歩ずつ歩いていくものなのだと、
ようやくわかった。
それ以来、紫色とオレンジ色の水たまりを、
僕は一度も見ていない。
水たまりは、未来ではなく、
まだ歩いていない人生だけを映していたのかもしれない。
✳︎シロクマ文芸部
✳︎お題「水たまり」からはじめるnote企画
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