ソビエト映画「炎628」
ソビエト映画「炎628」(1985年/カラー/143分/エレム・クリモフ監督)を2026年4月2日(木)に早稲田松竹(東京都新宿区高田馬場1-5-16)で観た。
これは反戦映画だ。作品の終りから3分の1が、この作品の主題たる1943年に起きたナチス・ドイツによる白ロシア(現在のベラルーシ)でのハティニ村における大虐殺を描いている部分だ。
ナチス・ドイツによる人間とは思えないような悪行をこれでもかこれでもかと告発するかのような場面の連続には圧倒される。
おそらくこの3分の1部分がなかったら、やや分かりにくい映画になった可能性があるような気がする。
そして思うのは、ナチス・ドイツの非人間的な行為を描くことは、ひいてはそのナチス・ドイツ軍を撃退して退却させたソ連の第二次世界大戦におけるもっとも輝かしい戦果を観客たちに訴える効果があるのだろう。
さらに言えば、検閲を行なう役人ら情報統制といった点ではとりわけ厳しかったソビエト政府へのアピールともなり、ただの反戦映画よりも校閲を容易にクリアすることが出来ただろう。
ある種プロパガンダと受け取られた面もあるかもしれない。
実際に映画のエンディングに向かって、主人公の少年フリョーラが水たまりに捨てられていたヒトラーの写真に向けて小銃を発砲するシーンがあったり、実写のヒトラーの映像や写真が使われているのだ。
終盤だけみたら、ハリウッド映画のような印象を受けるかもしれない。しかし、その前の3分の2はハリウッドではおそらく作ることが出来ないだろう人間の深い深いところまで下りて行ったようなことが詰まっている。

最後の3分の1が表のテーマによる映像だとしたら、その前には裏のモチーフが隠されていると思う。反戦というのが貫いているのは確かだが、始まりからの3分の2の部分には武器を持つということはやがては戦争につながっていく可能性あるいはリスクを秘めているという思想、それと男と女という永遠のテーマをおそらく聖書を下敷きにして取り上げていることだ。
最初の裏のテーマからいこう。映画の最初に伏線が張られている。墓を掘り起こして小銃を掘り起こそうとするフリョーラたち2人の少年に老人が忠告する。そして終盤に隠してあった小銃を取り出すが、なぜだか白い包帯をその銃に巻こうとするのである。
武器に関して、日本人に日本国憲法9条を想起させるかもしれない。
私は憲法9条を守ろうと声高に活動する人たちをやや斜めに見ていた。
だが、武器を持つということはやがてはそれを使っての戦いにつながっていくリスクを分かっていたからこその「理想」の条文だったのではないかとこの映画を通して気がついた。たとえ骨抜きにされてきたとしてもだ。
その条文があるだけで防波堤になることもあったし、今もそうだろう。
あるいは銃社会アメリカを例にあげよう。アメリカという国の成り立ちから自衛の銃などを持つことは当然とされてきた。それは今でもアメリカ人にとっての当然の権利として、常識として生きている。
だが、みんなが銃を持っているとしたらどうだろうか。疑心暗鬼にかられることもあるのではないか。実際、アメリカでは銃による死者が後を絶たない。恐怖が人を支配してしまうからだ。
罰があたるアダムとイブ
もう一つの裏テーマが男と女だ。映画の中盤でフリョーラは美少女グラーシャと出会う。グラーシャは二人だけの時にフリョーラを誘う。しかし、フリョーラは女性からの積極的な誘いに乗らなかった。
グラーシャはどう思っただろうか。「据え膳を食わない男」だと思って情けないと思ったのか。あるいはきちんとした人物だと思ったのだろうか。ここが、男の目線からではあるが、女性の難しさだと思うのである。
のちに一つ布にくるまって二人は結ばれる。その後のシーンが印象的だ。雨上がりの緑が美しい森の中で二人は楽しそうに過ごす。そこには虹がかかって、反戦映画の中のオアシスのような場面だ。
二人は結ばれたけれど、この場面は聖書にあるアダムとイブが最初にいた楽園を描いていたのではないかと思う。
その場面で木から落ちてきた雨粒でずぶぬれになる二人。グラーシャの来ていた黒のシャツは濡れて体に密着して乳首が分かる。このセクシーな描写はアダムとイブの物語を思い起こさせる効果がある。
やがて二人は禁断の実を食べてしまったことによって罰を受けることになったのではないか。フリョーラは家族をナチス・ドイツに皆殺しにされて、頭がおかしくなってしまう。さらには大虐殺の場に居合わせることになって、目の前で赤ん坊から老人までが虐殺されるさまを目にするのだ。
この映画の英文タイトルは「Come and See」という。これはフリョーラ少年が何か呼ばれたかのようにして悲惨な虐殺現場を見させられたということを示すタイトルなのではないかと思う。
そこには神の働きがあると分かっての英語タイトルだろう。
一方の少女グラーシャは家族を殺されたショックから変貌を遂げた少年から別れて、しばらく画面に登場しない。終盤になってナチス・ドイツに「飼われているペットあるいはアイドル的存在」のような姿として再登場する。つまり要領よく生き延びて「上手くやっている」と一見思わされる。
だが、最後の最後には、おそらくは犯されたのだろう、見るも無残な姿になって少年フリョーラの前に姿を現すのだ。結局、罰が当たったのだろう。
監督の深い思索の後が伺える作品だと思った。
ちなみに日本語タイトルにある628とは、ナチス・ドイツに襲われて人々が残酷に殺された村の数だという。
