80桁の恋文
昭和五十四年、新緑の季節。
電算室の重い二重扉を抜けると、いつものように大型汎用機の冷却ファンが低い唸りをあげていた。
机に突っ伏して鉛筆を握る僕の手元には、専務直属の新規プロジェクトである、基幹販売管理システムのFORTRANプログラムシートが積み上がっている。
僕の人生は、順風満帆のはずだった。
先週、常務の仲介で、有力な取引先の社長令嬢との見合いを済ませた。育ちの良さそうな、大人しい娘だった。
「君のような優秀なシステムエンジニアなら、娘を安心して預けられる」
常務は上機嫌で僕の肩を叩いた。社内での出世コースは約束されたも同然だった。
ただ一つの「エラー」を除いては。
デバッグ拒否
きっかけは一ヶ月前の夜、場末の純喫茶で怜子から差し出された、小さな封筒だった。
「できたの」
彼女はいつもの無表情な、しかしどこか怯えた瞳で僕を見つめていた。細い指先が、コーヒーカップの縁をなぞる。
「……三人で、暮らせるよね?」
僕の喉の奥が、冷たい鉛で塞がれた。なぜ今なんだ。なぜ、よりによってこの大事な時期に。
キーパンチャー風情の女と結婚して、誰が僕の出世を後押ししてくれるというのか? 日陰の作業部屋で、一日中機械に数字を叩き込むだけの「単能工」の女が。
「勘違いじゃないのか。病院の診断書は?」
僕が冷淡に吐き捨てると、彼女はただ黙って、コーディングシートの切れ端を差し出した。そこには、彼女の几帳面な字で産婦人科の名前と、妊娠八週目を示す数値が並んでいた。
「……わかった。善処する。今は大きなプロジェクトの山場なんだ。電算室では普段通りにしてくれ」
僕はその場しのぎの嘘をつき、封筒をポケットにねじ込んだ。
それ以来、僕はパンチ室を徹底して避けた。作成した手書きシートはすべて後輩に運ばせ、彼女からの電話も下宿の大家に居留守を使わせた。中絶費用として十万円を現金書留で送りつけ、手紙は一行も添えなかった。
これで問題(バグ)は修正(パッチ)されたはずだった。
僕の人生という論理構造から、彼女という不要なサブルーチンを完全に削除(デリート)したのだ。
謎のジョブ・ステップ
婚約発表を翌日に控えた深夜、僕は一人で電算室に残っていた。
明日の朝一番で役員会に提出するバッチ処理プログラムの最終テストを実行するためだ。
「先輩、知ってますか? 藤森さん、先週付けで会社辞めたらしいですよ」
昼間、後輩が何気なく口にした言葉が、耳の奥でリフレインしていた。
辞めた? どこへ?
……知るか。十万受け取って田舎にでも帰ったのだろう。僕には関係のないことだ。僕には、輝かしい未来が待っている。
大型機のコンソールに向かい、カードリーダーにテスト用のプログラムデッキ(カードの束)をセットしようとした時だった。
カードの束の一番上、見出しカードの「73〜80カラム」に、見慣れない、だが戦慄を覚える刻印があった。
BABY.DAT「な……んだ、これは……」
僕が書いたコードではない。
慌てて束をめくると、僕が後輩経由でパンチ室に出したはずのカードデッキのあちこちに、見たこともない異質なカードが規則的に割り込まれていた。
C WATASHI O KESHITEMO KONO KO WA KISAN SARETEIRU
INTEGER*4 MOTHER, FETUS, FATHER
DATA FATHER / 0 /
DO 666 MONTH = 1, 10
FETUS = FETUS * 2
IF (MONTH .EQ. 10) CALL BIRTH(FATHER)
666 CONTINUE
「馬鹿な……! あの女、勝手にコードを差し替えやがったのか!?」
明日提出のマスターデッキだ。これを今から手作業で抜き取り、正常なカードだけに組み直すなど、朝までに間に合うはずがない。
「クソッ、あの狂女め……!」
怒りに任せてカードを床に叩きつけた瞬間、背後で「ガシャンッ」と重い音が響いた。
穿孔された胎児
電算室の電源ランプが一斉に明滅した。
蛍光灯が激しく点滅し、青白い冷光が部屋を満たす。
誰も触れていないはずの高速カードリーダーが、突如として猛烈な吸気音を立てて回転を始めた。
カタタタタタタタタタッ!!
床に散らばったカードが、まるで意思を持った虫の群れのように宙を舞い、リーダーのホッパーへと吸い込まれていく。1分間に千枚。カードが擦れ合う異様な摩擦熱と、紙粉の匂いが立ち込める。
そして、排出口(スタッカー)から吐き出されたのは…
カードではなかった。
ボタ、ボタボタッ
湿った、重い肉塊が、機械の隙間から床へとこぼれ落ちていく。
「ヒッ……!?」
それは、打ち抜かれた長方形の紙屑(チャド)が、赤黒い血液と羊水で固められた、小さな人間の形をしていた。
無数の、数万粒もの紙屑でできた胎児。
その小さな身体の表面には、僕が送った十万円の現金書留の封筒と、あの日の診断書の文字が、パンチ穴となって無数に刻まれている。
『……お父……さん……』
スピーカーからではない。大型機の磁気テープ装置(オープンリール)が激しく逆回転し、キーキーと軋むテープの摩擦音が、赤ん坊の泣き声となって電算室に反響した。
「やめろ……来るな! 僕は悪くない! 金は払っただろうが!」
後ずさりした僕の背中に、冷たい何かが触れた。
振り返ると、そこに怜子が立っていた。
彼女の身体は、異様なほど痩せこけていた。だが、その腹部だけが、FORTRANのコーディングシートを何重にも巻きつけたように異様に膨れ上がり、そこから無数のパンチカードが舌のようにベロベロと垂れ下がっていた。
彼女の顔には、もはや人間の皮膚はなかった。
80桁、12行のマス目。その一つ一つに、無慈悲な穿孔針が打ち込まれ、黒い穴が空いている。
「わたしはね……あなたのために、ぜんぶ打ち直したの」
怜子が右手を持ち上げた。
その指先は、IBM穿孔機の鋼鉄の針そのものだった。銀色に光る四角い刃先が、油で濡れている。
「あなたの人生から、わたしたちはエラーとしてスキップされた」
「だから……あなたの論理(ロジック)を、最初から穿孔(パンチ)し直してあげる」
「やめろ、助けてくれ! 誰か! 僕は常務の…、次期課長なんだぞ!!」
絶叫する僕を、床のチャドの胎児が冷たい小さな手で足首を掴み、固定した。身動きが取れない。
怜子の鋼鉄の指が、僕の喉仏に位置づけられる。
カシャン。
痛熱い衝撃。皮膚が四角く打ち抜かれ、肉の断片が床に落ちる。
カシャン。カシャン。カシャン。
「1カラム、2カラム、3カラム……」
怜子は無表情に、メトロノームのように正確なリズムで、僕の身体に穴を開け続けた。
喉から、胸へ。胸から、腹へ。
肉が打ち抜かれるたびに、僕の意識というプログラムから、出世の野望も、保身も、言葉すらも抜け落ちていく。
FATAL ERROR : INTEGRITY CHECK FAILED
ABORT DUMP RUNNING...意識が途切れる最後の瞬間、僕の視界に映ったのは、僕の胸に正確に打ち抜かれた、80個の血の穴だった。
翌朝
翌朝、出勤してきたオペレーターたちが見たのは、電算室の中央で椅子に座らされ、絶命している僕の死体だった。
外傷はなかった。ただ、僕が着ていたワイシャツの前面一面に、まるで機械で精密に打ち抜いたかのように、無数の長方形の穴が規則正しく並んでいた。
そして、床に散乱していた数千枚のパンチカード。
そのすべてに穿孔されていたのは、たった一行のエラーメッセージだった。
C DIVISION BY ZERO : YOU CANNOT DIVIDE OUR CHILD.
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