【夏の怪談より恐ろしい?】かつて日本にもあった「蚊」が運ぶ恐怖の熱病、マラリアの歴史
日本の夏に切っても切り離せない「蚊」。
プンと羽音が聞こえるだけで不快なものですが、かつての日本において、蚊は単に「痒い」だけでなく、命に関わる最悪の熱病を運んでくる恐怖の存在でした。
その病気の名は、マラリア。
現在でこそ「熱帯地方の病気」というイメージが強いですが、実は昭和中期(1950年代)頃までは、ここ日本でも日常的に流行していた歴史があります。
今回は、日本の歴史の裏に隠された「蚊とマラリアの戦い」を解説します。
1. 歴史に登場する謎の熱病「瘧(おこり)」の正体
日本におけるマラリアの歴史は非常に古く、平安時代や鎌倉時代の文献に頻繁に登場する「瘧(おこり)」という病気が、まさにこれだったと考えられています。
貴族たちを震え上がらせた病
『源氏物語』で光源氏が熱病の治療のために北山に赴く有名なシーンがありますが、この熱病の正体も「瘧」です。また、平清盛が亡くなった際の「体に水をかけるとたちまちお湯になるほどの高熱」という凄惨な描写も、悪性マラリア(熱帯熱マラリア)だったのではないかという説が有力視されています。
定期的に襲う高熱と悪寒
マラリアの最大の特徴は、その特異な症状にあります。突然、体がガタガタと激しく震えるほどの「悪寒」に襲われ、その後に40度近い「高熱」が出る。そしてしばらくすると、何事もなかったかのように熱が引き、また数日後に同じ症状を繰り返す……。この未知のサイクルが、当時の人々を何よりも恐れさせました。
2. 日本の農村を苦しめた「三日熱マラリア」と水田の罠
日本に土着していたマラリアの大部分は、「三日熱マラリア」と呼ばれるタイプでした。
媒介したのは、現在よく見かけるヒトスジシマカ(ヤブ蚊)ではなく、シナハマダラカという蚊です。
🌾 皮肉にも絶好の繁殖地となった「水田」 シナハマダラカは、水田や流れの緩やかな小川などの泥水を好んで繁殖します。そのため、稲作中心の日本の農村地帯は、蚊にとってこれ以上ない楽園になってしまいました。
特に福井県の三方五湖周辺(「三方おこり」と呼ばれた)や、滋賀県の琵琶湖沿岸などは、明治から昭和初期にかけてマラリアの多発地帯(地方病)として知られ、地域の労働力に甚大な打撃を与えていたのです。
3. 戦中・戦後の混乱期に訪れた「最大のパンデミック」
この病が日本で最大のピークを迎えたのは、第二次世界大戦の直後(1945年〜1946年頃)のことです。
南方戦線(東南アジアや太平洋の島々)から引き揚げてきた復員兵の多くが、現地でより凶悪な「熱帯熱マラリア」などに感染していました。
彼らが帰国したことで、国内のシナハマダラカを介して周囲の人々へ二次感染が爆発的に拡大したのです。
戦後の混乱による衛生環境の悪化や医薬品の不足も重なり、1946年には日本国内の公式なマラリア患者数が年間約2万8,000人(潜在的な患者を含めると数拾万人とも)に達し、深刻な社会問題となりました。
4. わずか数年での劇的な根絶、その勝因とは?
これほどの猛威を振るったマラリアですが、日本はそこから驚くべきスピードで制圧に成功します。主に以下の3つの対策が決定打となりました。
DDTによる徹底的な蚊の駆除
GHQの指導のもと、蚊の発生源である水田や排水路、民家の壁などに強力な殺虫剤「DDT」が大量に散布され、媒介する蚊の数を劇的に減らしました。
特効薬(クロロキンなど)の普及
優れた抗マラリア薬が導入され、「患者を早期に治療して、次の蚊に原虫を移させない(感染源の遮断)」ことが徹底されました。
水田の近代整備と住環境の向上
土地改良事業によって水はけが良くなり、ボウフラが湧きにくい環境が整いました。また、網戸や蚊帳(かや)の普及も大きな役割を果たしました。
💡 結び 現代の日本と、これからの夏
こうした先人たちの徹底的な対策の実を結び、1959年の滋賀県での発生を最後に、日本国内における土着のマラリア(国内感染)は事実上、根絶されました。
現在、日本国内で報告されるマラリア(年間数十例)は、すべて海外の流行地域で感染して帰国後に発症する「輸入マラリア」のみです。
現代の私たちは、蚊に刺されても「痒い!」と文句を言うだけで済みますが、かつての日本の夏は、命がけの熱病を運んでくる蚊との文字通りの「死闘の季節」だったわけですね。
網戸や洗練された殺虫技術のありがたみを、改めて実感せずにはいられません。
