原ひろ子著 「子どもの文化人類学」
ちくま学芸文庫 2023年1月刊 初版 晶文社 1979年2月刊
先日NHKオンデマンドで「100カメ」の「マンモスこども園」の回を観て悶絶した。折り紙の折り方を教えているシーンだ。子どもたち、できなくて、わからなくてあたりまえだよ。能力とかやる気のせいじゃない。
それで真っ先に思い出したのが本書。
カナダの狩猟採集民であるヘヤー・インディアンには、「教える/教えられる」という概念がないのだそう。ただ「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって覚えるのだという。そのエピソードの中にまさに折り紙が出てくるのだ。
テントで、私が何げなくおしゃべりをしながら、折鶴を折っていると、十歳前後の子どもたち(女の子が多かったのですが、男の子もいました)がとてもおもしろがりました。そして、「もう一つ折ってくれ」と何度もいうのです。何羽も折っているうちに、「紙をちょうだい」といって、自分で一生懸命に折り始めました。けっして、「初めにどうするの?」などと聞いてきません。「もっとゆっくり折って」とも、「これでいい?」ともいいません。「教えてよ」といわないのはもちろんです。いろいろやってみて、自分で、「これでできた」と思うときに、私のところに見せに来るのです。
そして私が、「この鶴は疲れてるみたい」とか、「これは、遠くまでとびそうだ」とか「きれいね」とかいうのを楽しそうに聞いています。
そして彼らは、「ヒロコが作ったので、自分も作った」と思っているのです。何羽も何羽も鶴を折ったあとで、子どもたちは「ほかに何か作れるか?」と聞いてきます。「こんどは違ったものを教えてよ」とはいいません。
情景が目に浮かぶようだ。きっと熱心に見ていたに違いない。
この箇所を読んだ時にモンテッソーリ教育を思った。モンテッソーリ教育は言葉で教えない。やり方を丁寧にゆっくり提示するだけ。子どもたちはやはりじーっと見ている。そしてやってみる。モンテッソーリ教具は間違えても自分で気づき修正できるようにできているので、大人が「違う」とは決して言わない。うまくできても「すごいね!」なんて過剰に褒めない。静かに「できたね」というだけ。モンテッソーリ教育は本当によく考えられているのだが、それもマリア・モンテッソーリの観察力の賜物だ。
本書に戻る。
日本に帰って来て、まわりを見まわしたとき、子どもも、青年も、「教えられる」ことに忙しすぎるのではないかと思うようになりました。(略)
幼時に「自分で覚える喜び」を深く体験している子どもだったら、中学や高校のカリキュラムに押されそうになる生活の中にあっても、自分の世界を築く自を失わない十代を過ごし得るのではないでしょうか。
そのためには、「よく観て」、「自分でやってみる」という時間が必要です。おとなの側に、それを待ってやるゆとりが必要であるように思われます。
だから冒頭の番組のシーンに頭を抱えたのだ。子どもの能力をみすみす潰しているようで。
文庫本には同じく文化人類学者の奥野克巳氏による解説があり(それで本書を知った)、内容の理解を助けてくれる。
本書は一九七三年から七六年にかけて書かれたエッセイがもとになっていますが、半世紀が過ぎても、そのメッセージ性は、褪せるどころか、ますます重要性をもって私たちに迫ってきます。だからこそ、読者は、やさしげな語り口で、全編にわたって分かりやすく語りかける原の文体にまどわされて、ほのぼのとしたいい話として読むだけで、本書のラディカルなメッセージを読みあやまることがあってはならないでしょう。
本書には、現代社会の子どもをめぐる状況に対する批判的な視点だけではなく、それを考え深めていくための大切なヒントや手がかりがたくさん隠されています。
まさに、「ほのぼのとしたいい話として読むだけ」ではもったいない。何度も読みたい本。
