曲がり角にある、本質屋|〜風変わりな店主が教えてくれたこと〜(1話完結)
曲がり角にある、本質屋
〜風変わりな店主が教えてくれたこと〜
その町には、人の本質を調べてくれる店があった。
駅前でもなければ、大通り沿いでもない。
古い時計屋と、いつ閉まるのかわからない金物屋の間の細い路地を入り、三つ目の曲がり角を右へ曲がったところにある。
店の名前は、
「本質屋」。
ずいぶん大げさな名前のわりに、看板は小さかった。
しかも、その下に手書きで、
――ただし、本人の希望どおりの結果が出るとは限りません。
と書いてある。
澄乃がその店を訪ねたのは、三十四歳の誕生日だった。
自分がどんな人間なのか、急にわからなくなったからだ。
若い頃なら、
「優しい人」
と答えていたかもしれない。
けれど三十四年も生きていると、自分の中に、それだけでは説明のつかないものがずいぶん増えていた。
困っている人を助けたこともある。
見て見ぬふりをしたこともある。
友人の成功を心から喜んだ夜もあれば、誰かの幸せを見て、胸の奥に小さな黒いものが浮かんだ夜もある。
母に優しくした翌日に、くだらないことで冷たくした。
仕事で新人をかばったこともあるのに、自分が忙しい日は、その子の質問を面倒だと思った。
「結局、私はいい人なんでしょうか。それとも嫌な人なんでしょうか」
カウンターの向こうにいた年配の店主は、澄乃の顔を見て言った。
「二択なんですか」
「え?」
「いい人か、嫌な人か」
店主は棚から小さなガラス瓶を取り出した。
瓶には何も入っていない。
「人間をそんなに簡単に分けられたら、この店はもっと暇ですよ」
十分暇そうだった。
客は澄乃しかいない。
店主は奥から、妙な機械を運んできた。
昔のレジスターと顕微鏡を足して、途中で作るのを飽きたような機械だった。
中央に、小さな穴がある。
「右手の人差し指を、ここへ」
「血とか採りませんよね」
「採りません。ここは病院ではありません」
澄乃が指を入れると、
ガチャン。
機械の横から、一枚の紙が出てきた。
店主がそれを拾う。
「出ました」
澄乃は身を乗り出した。
紙には、一言だけ書いてあった。
――未定。
「……は?」
「未定ですね」
「三十四歳ですよ?」
「はい」
「まだ?」
「はい」
「故障じゃなくて?」
店主は機械を二度叩いた。
「今朝パンくずが入りましたが、たぶん大丈夫です」
「不安しかないんですけど」
澄乃は紙を裏返した。
裏も白い。
「三十四年生きて、私の本質、まだ決まってないんですか」
すると店主は、少しだけ笑った。
「決まっていると思っていたんですか」
その言葉が妙に引っかかった。
店主は棚から一冊の分厚い帳面を持ってきた。
「では一つ、実験しましょう」
「実験?」
「一週間、毎日この道を通ってください」
店の前の地図を指した。
本質屋の前から駅へ続く細い道だった。
「それだけ?」
「それだけです」
意味がわからなかったが、澄乃は一週間、仕事帰りにその道を通った。
一日目。
道の途中に、空き缶が落ちていた。
澄乃は見た。
けれど、そのまま通り過ぎた。
駅まで行ってから、少し気になった。
でも戻らなかった。
二日目。
同じ場所に、今度はビニール傘が倒れていた。
通行人が避けて歩いている。
澄乃も避けた。
十歩ほど進んでから、
「あーもう」
と言って戻った。
傘を畳み、邪魔にならないところへ置いた。
三日目。
小学生くらいの男の子が、自転車のチェーンを外して困っていた。
澄乃は時計を見た。
ドラッグストアのタイムセールが終わるまで、あと十二分だった。
通り過ぎた。
七歩。
六歩。
五歩。
止まった。
「……チェーン?」
男の子が顔を上げた。
結局、手は真っ黒になった。
タイムセールには間に合わなかった。
四日目。
何も起こらなかった。
澄乃は少しホッとした。
五日目。
道端で誰かが財布を落とした。
前を歩く男が拾い、そのまま自分のポケットに入れた。
澄乃は見ていた。
声をかけようと思った。
けれど怖かった。
男は大柄だった。
澄乃は黙ってしまった。
その夜、布団の中で何度もその場面を思い出した。
声をかければよかった。
いや、怖かったんだから仕方ない。
でも。
でも。
六日目。
昨日と同じ道で、前を歩く女性の鞄から定期券が落ちた。
澄乃は反射的に拾った。
「すみません!」
女性が振り返る。
「あ、ありがとうございます」
たったそれだけだった。
なのに澄乃は、昨日言えなかった「すみません」を、今日ようやく言えたような気がした。
そして七日目。
雨だった。
本質屋の少し手前で、店主が転んでいた。
紙袋からジャガイモが転がり出し、雨の坂道をコロコロ逃げていく。
「何してるんですか!」
澄乃は傘を放り出して走った。
ジャガイモを三つ拾ったところで、店主が言った。
「一つ、側溝に入りました」
「知りませんよ、もう!」
「夕飯の肉じゃがが」
「知らないって!」
そう毒づきながらも結局、澄乃は恐ろしく重たい側溝の蓋まで持ち上げた。
店に戻ると、二人ともびしょ濡れだった。
店主は平然と例の機械を出してきた。
「では、もう一度」
澄乃が指を入れる。
ガチャン。
紙が出てきた。
澄乃は急いで拾った。
――未定。
「変わってないじゃないですか!」
店主が笑った。
「そりゃそうです」
「一週間、何だったんですか」
濡れた帽子を脱ぎながら、店主は言った。
「あなたは一日目、空き缶を拾わなかった」
「はい」
「二日目は戻った」
「はい」
「三日目も、一度通り過ぎた」
「……はい」
「五日目は怖くて声を出せなかった」
澄乃は黙った。
「あれも知ってるんですか」
「本質屋ですから」
ちょっと怖い店だった。
店主は続けた。
「では質問です。どれがあなたの本質でしょう」
澄乃は答えられなかった。
空き缶を無視した自分。
傘を片づけた自分。
少年を助けた自分。
財布を持ち去った男に声をかけられなかった自分。
定期券を届けた自分。
雨の中で、ジャガイモを追いかけた自分。
全部、自分だった。
「わからないです」
「でしょうね」
店主は二枚の「未定」を並べた。
「人は、自分の中に一個だけ、本物の自分が隠れていると思いたがります」
一枚目の紙の上を指で叩く。
「たとえば、『私は優しい人間だ』」
今度は、もう一枚を叩いた。
「あるいは、『私は臆病な人間だ』」
さらに空中を指さす。
「私は冷たい人間だ。私はダメな人間だ。昔からこうだから、これからもこうだ」
澄乃は、いつの間にか黙って聞いていた。
「でもね」
店主は言った。
「そんな札を、一度自分の胸に貼ってしまうと、人間は不思議なもので、その札に合うように生き始めるんですよ」
「……じゃあ、本質なんてないんですか」
店主は少し考えた。
「あると思います」
意外な答えだった。
「ただし、石みたいに体の奥に埋まっているものではない」
店の外を指した。
雨が細くなっていた。
「道みたいなものです」
「道?」
「最初は草むらです。何度か同じところを歩くと、草が倒れる。十回歩けば細い道になる。百回歩けば、そこが自分の道になる」
澄乃は窓の外を見た。
「優しさも、勇気も、ずるさも、冷たさも、たぶん同じです」
一度の行動では決まらない。
一度逃げたから臆病な人間になるわけでもない。
一度誰かを助けたから、善人になるわけでもない。
ただ。
同じ方向を何度も選ぶ。
やがてそこに、道ができる。
「じゃあ……私は?」
店主は肩をすくめた。
「知らないですよ」
「本質屋でしょう」
「未来までは扱ってません」
澄乃は笑ってしまった。
店主も笑った。
そして、少し真面目な顔になった。
「ただ、一つだけ面白いところがあります」
「何ですか」
「あなたは、この一週間で何度か通り過ぎた」
澄乃の胸が少し痛んだ。
「はい」
「でも、何度か戻った」
その言葉で、澄乃は顔を上げた。
店主は言った。
「私はね、その人が最初にどちらを選んだかより、間違えたあと、どちらへ戻ろうとする人なのかを見ます」
店の外で、雨が止んだ。
屋根から最後の雫が落ちる。
「人間は、毎回ちゃんとした方を選べるほど立派じゃありません」
店主は、さっき拾ったジャガイモを布巾で拭いた。
「疲れていれば冷たくなる。怖ければ逃げる。嫉妬もする。腹も立つ。見ないふりもする」
丸いジャガイモが、一つずつ籠へ戻っていく。
「でも、あとで気づくことがある」
あのとき言えばよかった。
あの人に悪かったな。
次は、こうしよう。
戻ろう。
謝ろう。
助けよう。
もう一度やってみよう。
「その小さな『戻る』を、人間は何度でもできる」
最後のジャガイモを籠へ入れた。
「そこが私は、けっこう好きですよ」
帰り道。
澄乃は駅へ向かって歩いた。
例の場所に、空き缶が一つ落ちていた。
誰かが捨てたらしい。
澄乃はそれを見た。
そして、通り過ぎた。
三歩。
足を止める。
振り返る。
「……もう」
誰に言うでもなく呟いて、戻った。
空き缶を拾い、少し先のゴミ箱へ入れる。
別に世界は変わらなかった。
誰も見ていなかった。
拍手もない。
澄乃が少し良い人間になったかどうかも、わからない。
ただ、昨日まで草の生えていた場所に、
今日、
一歩ぶんだけ、
細い道ができた。
澄乃はそれを知らない。
だからまた明日も、自分が何者なのかわからないまま生きていく。
間違えたり。
通り過ぎたり。
戻ったりしながら。
たぶん、人間というものは、
どこかに完成した「本当の自分」がいて、それを一生かけて探すのではない。
今日どちらへ歩くか。
明日、どちらへ戻るか。
その足跡が少しずつ重なって、
いつか振り返ったとき、
「ああ、私はこんな道を歩いてきた人間だったんだ」
と気づくのだ。
だから本質屋の紙には、
死ぬまできっと、
こう書かれている。
――未定。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。🧚🏻♂️
もし本質屋を見つけても、
転がるじゃがいもには、どうぞお気をつけて💚
