#64 やさしい声と香りの余韻
「さっき、大丈夫でした?」
その声が落ちてきた瞬間、胸の奥がふわっと揺れた。
Sさんだった。
近づいたときにふわりと漂う、
あのウッディで少し甘い香り。
清潔感があって、
でもどこかあたたかい。
香水というより
“その人の空気”みたいな匂い。
それが私の緊張を、
すっと溶かしていった。
私は慌てて笑顔をつくった。
「すみません、英語で固まっちゃって…」
さっきの“Hello—”の瞬間が、
まだ頭の中でリピートしていた。
どうしよう、どうしよう、って焦って、
結局何もできなかった自分が恥ずかしくて、
机に溶けてしまいたかった。
Sさんは首をゆっくり振った。
「いや、あれは誰でも焦りますよ。
取ろうとしてくれただけで、すごいと思います」
その一言が、
胸の奥にすっと染みた。
誰も見ていないと思っていた。
役に立てなかった自分を責めていたのに、
“取ろうとしてくれただけで、すごい”
そんなふうに言ってくれる人がいるなんて、
思っていなかった。
Sさんは、少しだけ笑った。
目尻がやわらかく下がる笑い方で、
その表情を見るだけで、
心のざわつきが静かになっていく気がした。
香りも、声も、仕草も、
全部が私を落ち着かせてくれる。
「僕も、電話対応、
全然できなくて落ち込みましたよ。
でも、続けてたら少しずつ慣れました」
その横顔が、
いつもより近く見えた。
光の当たり方のせいか、
頬のラインがきれいで、
まっすぐなまつ毛が影を落としていた。
こんな人でも“落ち込んだことがある”なんて、
少し意外で、
少し嬉しかった。
私は、
机の端に置いていた英語のノートに
そっと書類を重ねて隠した。
言いかけた言葉があった。
「私も、勉強してて…」
でも、喉の奥で止まった。
それでも、
Sさんの言葉のおかげで、
今日の“どうしよう”が、
少しだけ救われた気がした。
役に立てなかった午後も、
固まってしまった自分も、
全部ひっくるめて、
「大丈夫ですよ」と言われたような気がした。
Sさんが去っていくとき、
あの香りがふわっと残った。
その余韻だけで、
今日の私は、少しだけ報われた気がした。
