天空のレムリア物語 ルアン編 1
天空のレムリア物語
第二部 ルアン編
第1話 『王という役割』
地上レムリアには、
王がいた。
だが。
その王を見て、
誰も道を空けることはなかった。
人々は跪かない。
王が市場へ来ても、
商人はいつものように店先で果物を並べている。
子どもたちは走り回り、
井戸端では女性たちが笑いながら話を続けている。
王が通ったからといって、
世界が変わることはない。
それが、
この時代の地上レムリアだった。
王都。
朝の市場。
一人の男が、籠いっぱいの果実を抱えて歩いていた。
淡い生成り色の衣。
簡素な腰帯。
足元には、どこにでもある革の履物。
王冠はない。
豪華な装飾もない。
護衛すら、少し離れたところを二人歩いているだけだった。
男の名は――
ルアン。
地上レムリア王。

「ルアン!」
突然、
露店から声が飛んだ。
王へ向けるには、あまりにも気軽な呼び方だった。
ルアンは振り向く。
果物屋の老女が、こちらへ手を振っている。
「昨日言った水路の件、忘れてないでしょうね?」
ルアンは苦笑した。
「忘れていませんよ。」
「本当に?」
「昨日から三回目です。」
「大事なことだから三回言ってるの。」
「では、今日の評議会で四回目を聞くことになりそうですね。」
老女は笑った。
「そういうこと。」
周囲の人々も笑う。
王と民。
そこに、
大きな境界はなかった。
少し先では、
二人の男が言い争っていた。
片方は農夫。
もう一人は、水晶加工を営む職人だった。
「だから、この水を工房へ回されちゃ困るんだ!」
「こちらだって仕事なんだ。水がなければ研磨ができない!」
二人の声が次第に大きくなる。
ルアンは足を止めた。
護衛が一歩前へ出ようとする。
だが、
ルアンは小さく手を上げ、それを止めた。
そして二人へ近付く。
「何があったんです?」
農夫が振り返る。
「ああ、ルアン。」
その呼び方にも、
誰も違和感を持たない。
「北水路の分配です。」
職人も言う。
「昨日から流量が落ちているんです。」
ルアンは黙って聞いた。
途中で口を挟まない。
誰が正しいとも言わない。
農夫の話を聞き終え、
次に職人の話を聞く。
そして、
近くで水路管理をしている青年にも尋ねた。
さらに、
市場の人々にも聞く。
それだけで、
かなりの時間が過ぎた。
護衛の一人が小声で言った。
「王よ。この後の予定が……。」
ルアンは振り返った。
「少し遅らせましょう。」
「ですが評議会が。」
「この方々の生活も、評議会と同じくらい大切です。」
そして再び、
二人の話へ戻った。
結局。
ルアンはその場で命令を出さなかった。
「今日の午後。」
「水路を実際に見に行きましょう。」
農夫が首を傾げる。
「王が?」
「私が。」
「水路を見るんですか?」
ルアンは笑った。
「見ないで決める方が、おかしいでしょう。」
職人も思わず笑った。
「本当に王らしくないな、あなたは。」
ルアンは少し考え、
穏やかに答えた。
「それでいいと思っています。」
この時代。
地上レムリアの王とは、
絶対的な統治者ではなかった。
遥か昔。
王とは、
神々と民を結ぶ者。
大地の意志を読み、
国の方向を一人で決める者でもあった。
しかし、
長い平和の中で社会は成熟した。
地域ごとに代表者が生まれ、
農業を知る者。
治癒を知る者。
水晶を知る者。
教育を知る者。
森を知る者。
海を知る者。
様々な人々が、
自らの知恵を持って社会へ参加するようになった。
一人の王が、
すべてを決める必要はなくなった。
王は、
皆の声を聞く。
意見がぶつかれば、
両方を聞く。
答えが出なければ、
また話す。
そして最後に、
皆が進める道を一つにまとめる。
それが、
地上レムリア王の役目だった。
ルアンは、
その役割に非常に向いていた。
声が大きいわけではない。
人を圧倒することもない。
特別な超能力を見せることもない。
だが。
どれほど時間が掛かっても、
人の話を最後まで聞いた。
そして、
自分と違う意見を持つ者を嫌わなかった。
だから人々は、
ルアンを信頼していた。
ただし――
憧れてはいなかった。
それは、
信頼とは少し違うものだった。
その日の午後。
評議会。
円形の大広間には、
数十人の代表者が集まっていた。
中央に玉座はない。
あるのは、
同じ高さの椅子。
ルアンもその一つへ座っている。
「北水路について。」
一人が発言する。
「農業側へ多めに回すべきです。」
別の者が反対する。
「工房の生産が止まります。」
また別の者。
「そもそも原因を調べるべきでしょう。」
声が重なる。
ルアンは聞いている。
長い。
非常に長い。
だが、
急かさない。
やがて全員の意見が出尽くした頃、
ルアンが口を開く。
「では。」
皆が彼を見る。
「明日の朝から三日間だけ、上流側の水量を測りましょう。」
「原因が水量低下なら、分配の議論をする前に上流を直すべきです。」
「その間、農地と工房には均等に制限を掛けます。」
「不便はありますが。」
「どちらか片方だけへ負担を押し付けない。」
沈黙。
やがて、
農業代表が頷いた。
工房代表も頷く。
「異論は?」
誰も手を上げない。
「では、その形で。」
それだけだった。
歓声もない。
拍手もない。
ルアンも、
何か偉業を成し遂げた顔をしない。
次の議題へ進む。
それが、
この国の日常だった。
会議が終わった頃。
一人の若い代表者が、廊下で友人へ言った。
「ルアンは、本当に話を聞くよな。」
「そうだな。」
「良い王だ。」
「うん。」
少し間が空く。
そして青年は、
何気なく続けた。
「でも……。」
「なんだ?」
「未来を見せてくれる人ではないよな。」
友人は答えなかった。
誰かを批判しているわけではない。
ただ、
漠然とした感覚だった。
平和だった。
生活にも困っていない。
王は善良。
社会も安定している。
それなのに。
人々の心の奥には、
わずかな空白が生まれ始めていた。
この先、私たちはどこへ向かうのだろう。
その問いに、
誰も答えていなかった。
数日後。
王都の西広場。
普段なら市場が開かれる場所に、
数百人もの民が集まっていた。
「何だ?」
「誰か来るのか?」
「新しい導師らしい。」
「治癒術の人?」
「いや。」
「何でも、南部の集落で枯れた森を蘇らせたとか。」
「本当に?」
ざわめき。
やがて。
広場の奥から、
一人の男が歩いてきた。

長いローブ。
色は、白でも黒でもない。
深い灰青色。
頭には大きなフードを被り、
その影から鋭い瞳だけが覗いている。
腰には武器を持たない。
王族の装飾もない。
護衛もいない。
ただ一人。
それなのに。
男が現れた瞬間、
人々のざわめきが止んだ。
ルアンが市場を歩いても、
こんなことは起こらない。
誰かが命令したわけでもない。
人々が、
自然に黙ったのだ。
男は広場の中央へ立つ。
ゆっくりとフードを少し上げた。
整った顔。
静かな眼差し。
年齢は分かりにくい。
若くも見える。
長い年月を生きているようにも見える。
その名は――
アシュタル。
アシュタルは、
すぐには話さなかった。
まず。
人々を見た。
一人ひとり。
まるで、
そこに集まった全員の心を見ているように。
そして。
低く、
よく通る声で言った。
「皆さんは。」
「今のレムリアを愛していますか?」
突然の問い。
一人が答える。
「もちろんだ。」
別の者も。
「当たり前だ。」
アシュタルは頷く。
「私も愛しています。」
その声には、
嘘がなかった。
「だからこそ。」
一歩。
前へ出る。
「私は思うのです。」
「もっと良くできる。」
人々の表情が変わる。
「今でも幸せです。」
「ですが。」
「病は残っている。」
「事故も起こる。」
「遠く離れれば。」
「愛する者へ会うために何日も掛かる。」
「作物は季節を待たなければ実らない。」
「私たちは。」
「それを自然だから仕方がないと。」
「受け入れてきた。」
誰も話さない。
アシュタルは続ける。
「ですが。」
「本当に、仕方がないのでしょうか。」
その問いが、
人々の胸へ刺さった。
アシュタルは右手を掲げた。
掌の上に、
小さな光が生まれる。
淡い白金色。
その光を、
傍らの枯れかけた花へ向ける。
光が触れる。
一瞬。
花の茎が起き上がった。
蕾が膨らむ。
そして。
ゆっくりと、
青い花が咲いた。
人々が息を呑む。
「……。」
「すごい。」
「どうやった?」
アシュタルは花を見つめる。
得意げな顔はしない。
むしろ、
どこか悲しそうだった。
「この力があれば。」
「枯れた畑を助けられます。」
「癒やしの技術を高めれば。」
「救えなかった命も救える。」
「私たちは。」
「今ある世界を壊す必要などありません。」
そして。
人々へ向き直る。
「今ある美しいレムリアを。」
「もっと美しくすればいい。」
その瞬間。
広場の空気が変わった。
歓声ではない。
もっと静かなもの。
だが。
人々の心に、
明確な熱が灯った。
未来。
誰も語らなくなっていた言葉。
その未来を、
この男は見せていた。
群衆の後ろ。
人々に混じって、
一人の男が立っていた。

簡素な衣服。
護衛を遠ざけ。
誰にも気付かれず、
アシュタルを見つめている。
ルアンだった。
アシュタルの言葉を、
最初から最後まで聞いていた。
隣にいた老女が、
王だと気付かず呟く。
「すごい人だねぇ。」
「ええ。」
ルアンが答える。
「あんな人がいてくれたら。」
「この国は、もっと良くなるかもしれない。」
ルアンは、
老女を見る。
責める気持ちは、
少しもなかった。
「そうかもしれませんね。」
心から、
そう答えた。
ルアン自身も、
アシュタルの力を否定できなかったからだ。
その夜。
王城。
ルアンは一人、
窓の前に立っていた。
西広場から、
まだ人々の声が聞こえる。
皆、
アシュタルの話をしていた。
治癒。
植物。
水晶。
創造。
未来。
その声には、
久しく聞かなかった高揚があった。
ルアンは静かに目を閉じる。
嫉妬はなかった。
王としての地位を奪われる恐怖もない。
むしろ。
アシュタルの力が、
本当に人々を幸せにできるのなら。
協力したいとさえ思っていた。
だが。
胸の奥に、
小さな違和感があった。
アシュタルの言葉。
「もっと良くできる。」
その考えに、
ルアンも反対ではない。
しかし。
人々の目を思い出す。
あの熱。
あの期待。
誰かが、
未来の答えを示してくれることへの高揚。
ルアンは、
窓辺へ手を置いた。
「……私たちは。」
小さく呟く。
「平和であることに。」
「慣れ過ぎたのかもしれないな。」
同じ頃。
王都の外れ。
高台に立つアシュタルは、
一人で街を見下ろしていた。
フードが風に揺れる。
その表情に、
勝者の笑みはなかった。
人々に支持されたことを、
喜んでもいない。
彼が見ているのは、
もっと遠い未来だった。
「まだ足りない。」
誰にともなく呟く。
「もっと早く。」
「もっと多く。」
「救えるはずだ。」
その声の奥には、
何かを追い続ける焦りがあった。
そして。
誰もまだ知らなかった。
この男が、
地上レムリアを大きく変えることになることを。
彼が悪意からではなく。
善意によって。
レムリアを、
本来の歩みよりも速く進ませようとしていることを。
そして。
その速度に最初に疑問を抱くのが、
天空王アーリエルであることを。
さらに。
誰よりも深くアシュタルの心へ入り、
彼がなぜ走り続けるのかを理解しようとする者が――
後に、
「レムリアで最も愛された王妃」
と呼ばれることになる、
エリュシアであることを。
この時。
地上レムリアには、
三つの異なる力が生まれようとしていた。
皆の声を聞き、
歩調を合わせる王――
ルアン。

未来を示し、
人々を前へ進ませる導師――
アシュタル。

そしてまだ地上にはいない。
人の痛みへ寄り添い、
異なる者たちの心を結ぶ王妃――
エリュシア。

三人の道は、
やがて一つの場所で交わる。
その時。
レムリアは初めて、
一つの問いへ向き合うことになる。
進化とは。
ただ、
前へ進むことなのか。
それとも――
すべての生命と共に進むことなのか。

