AIが設計した「一人ひとり違うがんワクチン」は、本当に効いたのか?
これは私のメルマガ「週刊Life is beautiful」で紹介している記事の要約・解説です。要約をこちらに書き、リンクを貼った上で私のコメントを書くというスタイルで、メルマガ本体のボリュームを減らして読みやすくすることを目的としています。
AIが設計に関わった個別化mRNAがんワクチン、フェーズ3で成功
ModernaとMerck(米メルク、日本では「MSD」として知られる製薬大手)が共同開発してきた、患者一人ひとりに合わせて作るmRNA(メッセンジャーRNA。細胞に「このたんぱく質を作れ」と指示を出す分子)がんワクチン「intismeran autogene」が、1000人以上の患者を対象としたフェーズ3臨床試験で二つの主要な目標を同時に達成した、という話題です。AIが薬そのものの設計に関わった治療法が、初めてこの段階を通過したという点で画期的です。
まず、用語の整理をしておきます。フェーズ3臨床試験とは、実際の患者を大人数集めて有効性と安全性を確かめる、承認申請の前の最終段階の試験のことです。新薬の開発では、フェーズ1(少人数で安全性を見る)、フェーズ2(効き目の兆しを見る)と進み、最後のフェーズ3で失敗する薬が数多くあるため、ここを通過できたかどうかが決定的な意味を持ちます。
対象となったのは、再発リスクの高いメラノーマ(悪性黒色腫。皮膚がんの一種で、進行が速く転移しやすいことで知られる)の患者、1000人以上です。手術でがんを取り除いた後も、体内には目に見えない微小ながん細胞が残っていることがあり、それが後になって再発や転移を引き起こします。今回の試験で達成された二つの目標は、無再発生存期間(再発せずに生きていられる期間)と、無遠隔転移生存期間(別の臓器への転移が起きずに生きていられる期間)です。つまり、術後に残ったがん細胞を叩けたかどうかが問われる試験だったことになります。
治療の流れは、次のようになっています。
まず患者の腫瘍組織を取り出し、同時に正常な血液も採取する
両方を次世代シーケンサー(遺伝子情報を高速で読み取る装置)にかけて、遺伝子の並びを読む
二つを見比べ、正常な細胞にはなく、その患者のがん細胞にだけ存在する遺伝子変異を洗い出す
そのデータをModerna・Merck側のAIシステムに渡す
複数のAIアルゴリズムを組み合わせて、どの変異が最も強く人体の免疫反応を引き起こしそうかを予測し、最大34個の「新抗原」を選び出す
選ばれた34個の目印をもとに、その患者専用のmRNA医薬品を設計し、製造する
ここで言う「新抗原」とは、正常な細胞にはなく、がん細胞だけが持っている目印のことです。がん細胞は遺伝子変異の結果として、正常な細胞には存在しないたんぱく質を作り出すことがあり、それが免疫システムから見て「よそ者」の印になります。ただし、変異はたくさん見つかるものの、そのすべてが免疫の攻撃を引き出せるわけではありません。どれが有望な標的なのかを見極めるところが難しく、そこにAIが使われています。
そして重要なのは、患者ごとに変異が違うため、受け取る薬も一人ひとり違うという点です。従来の医薬品は、同じ成分の薬を大量に作って多くの患者に配る、というモデルで成り立ってきました。今回の仕組みは、腫瘍を読み取ってから一人分の薬を設計・製造するという、まったく異なるやり方になっています。
この患者専用のmRNAが体内に入ると、細胞がその新抗原を作り出します。これは、免疫システムに対して、そのがん細胞の「手配書」を前もって渡しているようなものです。手配書を受け取ったT細胞(免疫の実行部隊となる細胞)が、体内に残っている微小ながん細胞を見つけ出して攻撃します。
さらに、この治療にはKeytruda(キイトルーダ)が併用されます。これはMerckの主力製品として知られる免疫チェックポイント阻害薬で、がん細胞が免疫システムからの攻撃を逃れるためにかけているブレーキを解除する働きをします。手配書を配って免疫を訓練するmRNAワクチンと、免疫のブレーキを外すKeytrudaを組み合わせる、という設計です。
つまり今回、「腫瘍の遺伝子を読む → AIが標的を選ぶ → mRNAを自動設計する → 患者専用に製造する → 免疫システムを訓練する」という一連のパイプラインが、まとめてフェーズ3を通過したことになります。Moderna側の発表によれば、個別化した新抗原療法として初めてフェーズ3で良好な結果が出た例であり、mRNAがんワクチンとして初めてフェーズ3に成功した例でもあるとしています。
ただし、これで「AIががんを治した」と言い切れるわけではありません。今回公表されたのはトップライン(速報値としての主要な結果のみ)であり、詳細なデータは公表されていません。また、患者がどれだけ長く生きられたかを示す全生存期間の結果も、これから待つ必要があります。がんの臨床試験では、再発が減っても最終的な生存期間の延長につながるとは限らないことがあるため、そこが確認されるまでは評価を保留すべきだ、という見方が一般的です。
それでも、この結果が持つ意味は小さくありません。これまでAIが医療で担ってきた役割は、カルテの下書きを作る、論文を要約する、画像診断を補助するといった、医師の周辺作業を助けるものが中心でした。今回は、「この患者にどんな薬を投与すべきか」という、治療の中身そのものを決める工程にAIが入り込み、その結果として作られた薬が、最終段階の臨床試験を実際に通過しています。
AnthropicのCEOであるDario Amodei氏は、AIが医学の進歩を何十年分も圧縮し、がんのような病気を治せるようになると繰り返し語ってきました。その主張は「楽観的すぎる」と受け取られることも多かったのですが、AIが設計に関わり、一人ひとりに違う薬を作る治療法がフェーズ3を通過したという事実は、その展望が単なる誇張ではなかった可能性を示しています。
