ジュリア編:第六話✞ 結ばれるもの(ヨハネの第一の手紙4:16)離れなくてもいい
寺の朝は、音から始まる。
鐘が一度、深く落ちた。
それだけで、すべては整った。
水は冷たく、
手は迷わなかった。
同じ動作が続いた。
同じ位置に戻る。
乱れはなかった。
余るものもなかった。
ただ、何も増えなかった。
ある日、
水を運ぶ途中で、
背後から声が重なった。
抑えられた、小さな声だった。
語るためではなく、
確かめるための声だった。
「先日、異国の宗派の者と、問答があったと聞く」
少し間をおいて、声が応じた。
「うむ。人は一度きりの命であり、
死してなお、同じものとして在る、と言うておった」
「では、縁はどうなる」
「そこを問うた者がおった。
大切な者に、再び会えるのかと」
音が、わずかに止まった。
「どう答えた」
「……人は縁によって結ばれ、縁によって離れる。
同じ形のまま留まることはない、と」
言葉は穏やかだった。
「想いはどうなる」
「想いもまた、流れのうちにある。
留めようとすれば、苦となる」
ひと呼吸置いて、
「……だからこそ、
見つめ、やがて離れていくのだと」
「離れられぬものは、どうする」
問いはまっすぐだった。
「……容易ではない」
わずかに声が低くなった。
「すぐには離れぬものもある。
だが、見つめ続けるうちに、
形は変わっていくものだ」
短い沈黙のあと、
「そうか」
それで閉じるはずの話だった。
流れは整い、
乱れなく終わるはずだった。
「……だが」
声が続いた。
「相手は、そうは言わぬらしい」
「どう違う」
「そのままでよい、と言うたそうだ」
音が、止まった。
「そのままで?」
「苦しみを抱えたままでもよいと。
神が、そのままの者を受け入れると」
誰もすぐには言葉を置かなかった。
「……それは、
苦を尽くす道ではないな」
「異なる道だろう」
「他力に頼るというなら、この国にもある。
浄土の教えと、何が違う」
「似てはおる」
わずかに間があった。
「だが、ただ救うのではないと」
「どういうことだ」
ほんのわずかな間。
「……“結ばれる”と」
その言葉だけが、静かに落ちた。
誰もすぐには続けなかった。
「結ばれる」
「神と、人が関わり続けると。
死してなお、断たれぬと」
沈黙が落ちた。
短くもなく、長くもなかった。
「……それでは」
ようやく声が出た。
「離れるということを、
求めぬままでよい、ということか」
「……そういう道なのだろうな」
否定でも、肯定でもなかった。
ただ、
そこに置かれただけだった。
水を運ぶ手は、止まらなかった。
だが、
言葉は止まらなかった。
——結ばれる
その一語だけが、残った。
指先が、わずかに動いた。
——しっかり、結びなさい
指先に、
帯の感触がよぎった。
あのとき結んだ形のまま、
ほどけていなかった。
桶を持ち上げた。
いつもと同じ重さのはずだった。
……わずかに、重かった。
手は止まらなかった。
動きも崩れなかった。
それでも、
ほんの一瞬だけ、
指の力が合わなかった。
呼吸は整っていた。
だが、
ひとつだけ、
わずかに遅れていた。
すぐに戻った。
何も変わらなかった。
それでも、
同じではなかった。
その日を境に、
わずかな重さが残るようになった。
水を汲むたびに、
呼吸が一拍だけ遅れた。
整っていたはずの動きが、
どこかでわずかにずれた。
なぜそうなったのかは分からなかった。
気にする理由もなかった。
そのまま、動きを続けた。
夜になった。
目を閉じたとき、
何も起こらないはずだった。
だが、
ほんの一瞬だけ、
それはあった。
あの部屋だった。
光があった。
香りがあった。
そして、
三人がいた。
夫と、
子と、
母が、
そこにいた。
言葉はなかった。
呼びかけもなかった。
視線も合わなかった。
近づこうとしても、
距離は変わらなかった。
触れることもできなかった。
それでも、
消えなかった。
ただ、
そこにあった。
一瞬で終わった。
目を開けたとき、
何もなかった。
静かな朝だった。
だが、
胸の奥に、
わずかな重さが残っていた。
水に手を入れたとき、
ほんのわずかに、
何かが揺れた。
匂いだった。
カスミソウの匂いだった。
すでに、失われているはずのものだった。
何も変わらなかった。
動きも、呼吸も、乱れなかった。
それでも、
それだけが消えなかった。
——ほどけなくてもよいのかもしれない
言葉にはならなかった。
ただ、
否定できなかった。
それでも、
そのまま動きを続けた。
桶を運び、
床を拭き、
同じ場所に戻った。
整っていた。
けれど、
以前と同じではなかった。
どこにも置けないまま、
それだけが残っていた。
その言葉だけが、離れなかった。
——結ばれる
気づいたときには、
紙が広げられていた。
筆はすでに、濡れていた。
同じ行を、なぞるためのものではなかった。
