コピー機と田中さん
田中誠司がオフィスに到着したのは、いつもより三十分早い七時半だった。
今日は午前十時から、取引先へのプレゼンがある。スライドは完璧だ。想定問答も頭に入っている。あとは資料を三十部刷って、それぞれクリアファイルに入れるだけ。余裕を持って準備できると、田中は満足げにネクタイを直した。
フロアにはまだ誰もいない。蛍光灯が白々と照らすオフィスは、妙にしんとしていて、自分の革靴の音だけが響いた。
コピー機の前に立ち、USBを差し込む。操作パネルに「用紙残量:十分」と表示されているのを確認して、田中は「印刷」ボタンを押した。
ところが。
ウィーン、ガガガガ、ウィーン。
コピー機が、奇妙な音を立て始めた。
印刷は始まっているらしく、一枚目がするりと出てきた。が、二枚目のところで機械全体がぴたりと止まり、次の瞬間、ウィーーンと唸り声を上げて、また動き出した。三枚出る。止まる。唸る。動く。
まるで何かに憑かれたように、コピー機がリズムを刻んでいる。
田中は操作パネルを見た。エラー表示はない。用紙も詰まっていない。ただひたすら、コピー機が「ウィーンガガガウィーン」を繰り返している。
「……なんだ、これ」
つぶやいた瞬間、背後からドアの開く音がした。
「おはようございます! 田中係長、早いですね!」
新入社員の吉岡拓海だった。入社三ヶ月。やる気と笑顔だけは誰にも負けないが、いかんせん空回りが多い。田中は振り返って軽く頷いた。
「ああ、吉岡くん。ちょうどよかった。このコピー機、おかしくてな」
「え、どんな感じですか?」吉岡が駆け寄ってくる。
「ウィーンガガガウィーン、って」
「……それ、そのまま言ってるんですか」
「そのまま言ってる」
吉岡は神妙な顔でコピー機の側面を叩いた。特に根拠はなさそうだった。案の定、何も変わらなかった。
「叩くな」と田中。
「すみません。じゃあ、一回電源切りますか?」
「プレゼン資料が途中まで出てるんだ。途中で切ったら設定が飛ぶかもしれん」
「あ、そっか……」吉岡が頭を抱えた。「困りましたね」
困りましたね、じゃない。困ってるのはこっちだ、と田中は思ったが、口には出さなかった。
そのとき、またドアが開いた。
「あら、もうこんなに来てるの」
松田幸子。パート歴十五年のベテランで、このオフィスの何でも屋であり、生き字引でもある。小柄で白髪交じりの彼女は、コーヒーの入ったタンブラーを片手に、コピー機を一瞥した。
「また田中さん、この子いじめてる?」
「いじめてません」田中は即答した。「勝手におかしくなってるんです」
「ウィーンガガガ、って言ってるでしょ」
「なんで分かるんですか」と吉岡が目を丸くした。
「だってこの子、いつもそうなるもの」松田さんはタンブラーをデスクに置き、ゆっくりコピー機に近づいた。「田中さん、USBはどこに差しました?」
「左側のポートです。いつもそこですよ」
「左ね」松田さんはコピー機の横をまじまじと見た。「田中さん、これ、右のポートじゃないと安定しないのよ。左は昔から調子が悪いの。総務に言ったんだけど、なかなか直してくれなくて。みんな知ってるから右を使うんだけど……」
田中の動きが、止まった。
「……え」
「左のポートに差すと、たまにこうやってリズム狂うの。データの読み込みが安定しなくて」
「……それ、どこかに書いてありましたか」
「ないない」松田さんはあっさり言った。「口伝えよ、口伝え。新人さんには教えるんだけど、係長には言いそびれちゃって。ずっと右使ってたんじゃないかと思ってたけど」
田中は天を仰いだ。
七年。このオフィスに来て七年になるが、自分はずっと左のポートを使っていたのだろうか。いや、待て。最初の頃は右を使っていたはずだ。でも、いつからか……そうだ、去年の秋に右側のポートが一時的に壊れて、左に変えたのだ。修理後もそのままにしていた。
「……一年近く、左を使ってました」
「あら、そうだったの」松田さんは少しも悪びれず、穏やかに笑った。「それでも刷れてたんでしょ? 今日はたまたま機嫌が悪かったのかね、この子」
コピー機を「この子」と呼ぶ人間が、この世にいる。田中はそのことに、今さらながら気づいた。
吉岡が、ぶふっと笑いを堪える音を立てた。
「笑うな」田中は言った。
「す、すみません」でも吉岡の肩は震えている。「係長が原因だったって思うと……」
「分かってる。俺が悪い」
「いやいや、田中さんが悪いわけじゃないのよ」松田さんが助け舟を出した。「私が早めに教えておけばよかったんだから」
彼女はUSBをそっと抜き、右側のポートに差し直した。
印刷ボタンを押す。
ウィーン、スルスルスル。
コピー機が、嘘のように静かに、滑らかに動き始めた。一枚、二枚、三枚。止まらない。唸らない。ただ淡々と、白い紙を吐き出し続ける。
三十枚。きれいに揃った資料が、トレイに積み上がった。
「ほら、ご機嫌でしょ」松田さんがコピー機の側面を、ぽんと優しく叩いた。
田中はそれを黙って見ていた。さっき吉岡が叩いたときは「叩くな」と言ったくせに、松田さんが叩くのは何も言えなかった。何かが違うのだと、なんとなく分かる。
「……松田さん、ありがとうございました」
「どういたしまして。プレゼン、うまくいくといいわね」
田中は資料をまとめながら、ふと思った。このオフィスには、マニュアルに書かれていない知恵が、いくつもある。コピー機のポートのことも、給湯室のお湯が出るまで少し待つことも、五番窓口の山田さんに頼むと書類が早く通ることも。それを知っているのは、長年ここにいる松田さんたちだ。
係長という肩書きを持ちながら、自分はまだ知らないことがある。それは恥ずかしいことじゃないかもしれない、と田中は思った。少なくとも、今日教えてもらえた。
「吉岡くん」
「はい」
「お前も覚えとけ。コピー機は右のポートだ」
「了解です」吉岡はにこにこしながらメモを取った。「係長の教訓として、しっかり胸に刻みます」
「教訓にするな」
松田さんが、くすくす笑いながらコーヒーを飲んでいた。
プレゼンは、十時きっかりに始まった。資料は三十部、きれいに揃っていた。田中は壇上に立ちながら、ふと昨日の朝のことを思い出した。コピー機のウィーンガガガ。吉岡の震える肩。松田さんのぽん、という手。
小さな、本当に小さな朝の出来事だったけれど、なんだか悪くない一日の始まりだったな、と彼は思った。
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