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思わせぶり──彼女の本当の仕事を知った夜 #249

「ねえ、大河さん。彼女さんとの結婚の話は進みましたか?」

沙耶さんにそう聞かれたのは、帰りの電車の中だった。僕たちはつり革に捕まって立っていた。いや、正確にはつり革に捕まっていたのは僕だけで、背の低い沙耶さんは、座席から伸びる細い銀色の柱に捕まっていた。車両が軋む音。アナウンスが、次の駅名を告げている。窓の向こうで、夜景が流れていく。

「うーん・・・・・・」
少し考えてから、笑った。
「それが、つい最近、彼女と喧嘩しちゃって」
「へえ・・・・・・」
と窓に反射して見える沙耶さんの顔からは、表情は読めない。
「なんでですか」
「いや、情けない話なんですけど」
窓越しから沙耶さんがこちらを見つめているのがわかる。しかしそこには目を合わせられず言った。

「彼女の名前を間違えて呼んじゃったんです。彼女、萌っていうんですが、『沙耶』って呼んじゃって」
「えっ!」
と沙耶さんは手を口に当てて驚いていた。はじめて窓越しでなくて、僕と正面から目が合った。でもそれも一瞬だった。沙耶さんはすぐに、窓の方へ視線を戻した。


この日も、僕たちは2人きりで会っていたわけではない。共通の知人が集まるサークルの帰りだった。

沙耶さんと知り合ったのは、半年前。

その時も共通の知人が集まる大人のサークルだった。60代から70代の人たちが中心で、銀座にランチに行ったり、六本木でカラオケをしたりする会。年長者たちの優雅な遊びは、30代の僕にとっては非日常で楽しくて、時間とお金が許す限り参加していた。

そこに沙耶さんもいた。彼女は僕と同年代で、それだけでなんとなく2人で話すことが多くなった。とはいえ、これまで会ったのは4回くらい。僕は彼女のことをあまり知らない。でも沙耶さんは、やたらと僕のことを聞いてくる。仕事のこと、趣味のこと、同棲している彼女のこと。

逆に沙耶さんに「仕事は何してるんですか?」と聞き返すと、「ライターです」と簡単な答えだけが返ってきて、それ以上を聞こうとする前に、また僕の話にされてしまった。沙耶さんは、自分のことをあまり話したがらなかった。だから、どこかずっと気になってしまったのだ。


「大河さん、それって、かなり不味くないですか」
沙耶さんの声で、意識が電車の中に戻る。
「え、ああ。彼女、怒ってました」
正直、今は僕の彼女が怒っている話はどうでもよかった。

──たいがさん。

沙耶さんは僕のことを「たいがさん」と呼ぶ。本当は「大河」と書いて「おおかわ」と読む。でも彼女だけは違う読み方をするのだ。
「高校の頃付き合ってた人に、同じ字で『たいが』って名前の人がいて。ついそっちで呼びたくなっちゃうんです」
ごめんなさい、と言いながら、照れ臭そうにそう説明された。

満更でもなかった。昔の彼氏と同じ呼び方。愛着のある名前。それを、僕に当てはめている──

「彼女さんとは、仲直りできたんですか?」
沙耶さんが覗き込むように僕を見る。
「仲直りは・・・・・・まだちゃんとできてないですけど、大丈夫です」
「大丈夫、なんですか」
「はい」

本当は、きっと大丈夫ではない。
あの夜のことはよく覚えている。「今、誰の名前呼んだ?」と聞かれて、答えられなかった。萌の顔から、みるみる表情が抜けていくのが分かった。
「・・・・・・ごめん」
「それ、誰?」
黙ることしかできなかった。沙耶さん。最近知り合ったばかりの友達で、4回くらいしか会ってなくて。そう言えばいいだけなのに。言えなかった。

その夜は、萌と同じベッドで寝ることはできず、リビングのソファーで寝た。天井を見ながら考えた。僕の中で、沙耶さんがこんなにも大きな存在になってしまっている。だから、もしかしたら、これでよかったのかもしれない、と。


「彼氏から違う女の人の名前で呼ばれるって、嫌だったでしょうね」
沙耶さんの口角が下がっている。電車の窓の反射越しだから、よく見えないけれど、どことなく彼女が萎んでいるのはわかった。

本当は、喧嘩の話なんてどうでもよかった。伝えたかったのは、その先だ。僕は付き合っている彼女の名前を間違うほど、あなたのことを考えている。気になっている。そういうことだった。でもそれを正面から言えるほど、器用じゃない。

「まあ、完全に僕が悪いんで。なるようになります」
「へえ・・・・・・」

沙耶さんはよく「へえ」という。この「へえ」が作る間が、僕は好きだった。否定もしない。踏み込みもしない。ただ続きを待っている「へえ」。

だからつい、話してしまう。
「なんか、結婚の話ばっかりされるとしんどいんですよ」
「彼女さんから?」
「はい」
電車が止まった。乗客が降りていき、僕たちの目の前の一席が空いた。座るよう促すと、沙耶さんは「ありがとうございます」と腰を下ろした。今度は正面から、まっすぐ目が合う位置になった。

「それで? 結婚したくないんですか?」
「したくないっていうか・・・・・・」
今の彼女と結婚したくないとかではなくて、逆に結婚する理由が見つからないのだ。萌とは1年半も一緒に暮らしている。ご飯も作ってくれる。一緒にいて楽だ。だから別れる理由なんてない。でも「楽だから」という理由だけで、一生一緒にいるのも違う気がしていた。僕はどこかで、萌と別れる理由を探していたのかもしれない。

「なんか、結婚のことを考えるのが、義務みたいになってきちゃって」
「へえ・・・・・・」
その「へえ」は、さっきとは少し違った。温度の下がった「へえ」。沙耶さんは電池が切れた人形みたいに、まっすぐ前を向いたまま、何も言わなくなった。

僕は言葉を探した。気を悪くしたんじゃないだろうか。僕に幻滅したんじゃないだろうか。調子に乗ってしゃべりすぎてしまったかもしれない。

「沙耶さんだったら、そういうの分かってくれるかなって」
電池の切れていた沙耶さんが、パッとこちらを見上げた。上目遣いというより、目玉だけを動かした目つきだった。
「それ、どういう意味ですか」
「いや・・・・・・」
僕は何を言っているんだろう。何が言いたかったのだろう。分からなくなった。沙耶さんには「察してください」が通用しない。気持ちをはっきり言葉にするまで、「なんでですか」「どうしてですか」と聞いてくる。でもそれをされるのは、沙耶さんにとって僕が特別だからだろう。そう思っていた。

再び黙ってしまった沙耶さんを見て、不安になった。降りる駅までの時間が、じりじり近づいてくる。最後にもう一度、彼女に笑ってほしい。何か、挽回できる話を──焦って、変なことを聞いてしまった。

「沙耶さん」
「はい」
「女の人にモテるには、どうしたらいいですか」
沙耶さんが僕を見る。ちゃんと顎を上げて、顔をこちらに向けてくれた。

「どういうことですか」
「僕、モテたいんですよ」
「それより、彼女さんとの仲直りが先じゃないですか」
ああ、もう。正論ばかりだ。少しは察してくれてもいいのに。
「いや」と笑ってから、少し声を落とした。

「沙耶さんみたいな人に、モテたいんです」

沙耶さんはこちらを見たまま、何も言わなかった。電車がゴトっと揺れる。女の子たちの笑い声。おじさんの咳払い。どうでもいい音だけが、やけに気になった。

言い過ぎたか。
でも、もう引っ込められない。

「そうですね・・・・・・」
ふっとまた彼女の視線がどこかへ行ってしまう。言葉を探しているのが、見て分かった。そして少しの間を置いて、沙耶さんは言った。

「器の大きな人、ですかね」
「器・・・・・・」
「はい」
「たとえば?」

沙耶さんがこっちを見た。初めて見る目つきだった。面接をする面接官のような、僕の何かを品定めする、強い意志のある目だった。

「肩書きとか仕事とか、全部ひっくるめて、ちゃんと人として受け入れられるかどうか」

なんだ、そんなことか。
強張った首筋が緩む。
「そんなの──」
全然できますよ、と言おうとした時、遮られた。
「ちなみに、一つだけいいですか」
沙耶さんは膝の上の鞄からスマホを取り出し、画面を触った。
「LINEを送ったので、よかったら後で見てくださいね」
いつもの柔らかい笑顔だった。ちょうど電車が駅に着く。

「じゃあ、私ここなので」
「あ、はい」
沙耶さんが立ち上がる。ドアが開く。ホームのアナウンスと、人混みのざわめきが、車内に流れ込んできた。
「また会えたらいいですね」
それだけ言って、電車を降りた。彼女はもう振り返らなかった。ドアが閉まる。さっきまでの喧騒が、嘘みたいに消える。電車が動き出す。


僕はしばらく茫然とした。LINEを送った? また会えたらいいですね? どういうことだ。

思い出したように、ポケットに入れていたスマホを開く。沙耶さんからのLINEが一通。中身はURLだけだった。タップすると、Xのあるアカウントページに飛んだ。そこには、沙耶さんの顔で、沙耶さんではない名前が並んでいた。下に、肩書きが書いてある。

──AV女優。

「・・・・・・えっ」
声が出た。見たことのある名前だった。というか。知っていた。顔も名前も、その人の体も、全て。ただ今まで目の前にいた沙耶さんと、結びついていなかっただけだった。

手のひらが、じわりと湿る。何度も画面を見た。それから、これまでのことを思い返した。

妙に白い歯。カメラを向けられ慣れている表情。年齢の割に時間の余裕がある、浮世離れした生活感。初めて会った時から、どこかで見た気がしていたこと。

──見たことがある。

こんなこの、電車の中で思い出すべきじゃないのに、思い出してしまう。夜、萌が眠ったベッドの中で、画面越しに見たあの顔。あの時は「沙耶」という名前ではなかった。もっと違う名前の知らない誰かだった。

それが今、画面の中で、全てが繋がってしまった。

沙耶さんが降りてから5駅の間。僕はずっと、立ったまま考えていた。思考が浮かんでは消えを繰り返し、自分の駅に着く頃には、一体何を考えていたのか、分からなくなっていた。

ひと気のない夜道。ぼんやりと歩く。時計を見ると23時をすぎていた。

沙耶さんは「ライターです」と嘘をついて、本当のことをずっと隠していた。それなのに、僕のことを根掘り葉掘り聞いて。「たいがさん」とあだ名で呼んで。萌との進捗をいつも気にして。僕に興味がある風を見せて。そんな沙耶さんに心を支配され、萌と別れることを考えていた。

でも──

彼女はAV女優だ。

「器の大きな人、ですかね」
「肩書きとか仕事とか、全部ひっくるめて、ちゃんと人として受け入れられるかどうか」
あの時の沙耶さんの言葉と目つきが、頭の中で蘇る。

マンションの前で、鍵を取り出したところで、独り言が出た。

「なんなんだよ・・・・・・」
ワンワンと、どこかで犬が鳴いている。一本奥の大通りから、車の走る音がかすかに届く。片方の口角が引き攣る。僕は少し笑っているようだ。

「大事なこと先に言っとけよ」
エントランスの扉に手を当て、もたれかかった。押し開ける気力もなかった。脱力したまま、立ち尽くす。そしてスマホを取り出し、電話をかけた。

「もしもし」
電話の相手はすぐに出た。少し眠たそうな声。聞き馴染みすぎて、空気のように耳に入ってくる。
「萌、ごめん。まだ、起きてた?」
「起きてたけど、今どこ?」
「もう帰る。なんかさ、食べたいものない?」

電話を切り、僕はコンビニに向かった。そこで一番高いプリンを2つ買い、萌の待つ家へ帰った。


沙耶さんの「また会えたらいいですね」を実現することはなかった。あれから、共通の知人のサークルにも、なんとなく顔を出さなくなった。

もう、彼女の「へえ」を聞くことはないんだな。

そう気づいたのは、ずっと後になってからだった。

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