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「誰がメンテするんだ?」という悲鳴。「民主化」の裏側で増殖する、令和の技術的負債

最近、テレビCMやネット広告で、楽しげに「自分たちでアプリを作って業務改善!」と謳う光景をよく目にする。プログラミングの知識がなくても、マウス操作だけで現場の人間が魔法のようにシステムを組み上げていく。そのキラキラした演出を眺めながら、私の脳内には、現場の最前線で四半世紀を生き抜いてきたシステムエンジニア(SE)としての、ひどく冷ややかなアラートが鳴り響く。

「で、そのアプリ、誰がメンテするんだ?」

それは、現場の熱狂の裏側で、私たちIT部門が何度も繰り返してきた歴史的悲劇の再放送にしか見えないのだ。

「エクセル・マクロの亡霊」の再来

かつて、どの職場にも「エクセル職人」や「アクセス名人」と呼ばれる人間がいた。
彼らはVBAを駆使し、複雑怪奇なマクロやデータベースを構築して、現場の業務を劇的に効率化させた。その瞬間、彼らは英雄だった。

しかし、数年後。その英雄が退職し、あるいは異動した後に残されるのは、中身が誰も理解できない「スパゲッティ・ファイル」だ。OSのアップデートやOfficeのバージョンアップに伴い、ある日突然エラーを吐き出す。業務は止まる。しかし、コードはブラックボックス化しており、保守ドキュメントなど存在しない。

結局、私たちSIerや社内IT部門が、火消しのために呼び出される。
「これ、なんとか直せませんか?」と。
他人の書いた、意図もロジックも不明なマクロを解読する作業ほど、精神を摩耗させるデバッグはない。

今、流行しているノーコード・ローコードツールによる「開発の民主化」は、この「エクセル・マクロ問題」を、より広範囲で、より深刻な形で再生産しているだけではないのか。マウスでドラッグ&ドロップして作られたアプリは、一見すると綺麗だが、その裏側にあるロジック(ビジネスロジック)は、やはり作った人間の脳内にしか存在しないのだ。

「自由」という名のシャドーIT

CMでは、現場の社員が「勝手に」アプリを作って問題を解決する。組織の壁を越え、迅速に、クリエイティブに。
だが、その「勝手」こそが、ITガバナンスにおける最大の脆弱性(ボトルネック)である。

私たちが現場で向き合うのは、コンプライアンス、セキュリティ、そしてデータの整合性だ。現場が良かれと思って作ったアプリが、個人情報を適切に処理しているか。社内の基幹システムとデータの不整合を起こしていないか。バックアップは取られているのか。

管理者の目が届かないところで増殖する「野良アプリ」は、IT部門から見れば、ネットワーク上のどこかに潜む未知の脆弱性(CVE)のようなものだ。
稼働している間はいい。だが、不具合が起きた時、あるいはデータの漏洩が発覚した時、責任の所在はどこにあるのか。

「現場が勝手に作ったものだから、IT部門は知りません」
そう突っぱねられるほど、世の中は甘くない。結局、泥をかぶるのは、システム全体の整合性を守らなければならない、私たちのようなベテランエンジニアなのだ。

ノーコードの裏に隠された「技術的負債」

私は、PythonやJavaといった言語での開発も、最新のKubernetesによるインフラ構築も経験してきた。それらの世界には、長年の知恵としての「お作法」がある。バージョン管理(Git)、コードレビュー、テストの自動化、ドキュメントの整備。これらはすべて、システムを「継続的に稼働させる」ための生命維持装置だ。

一方で、ノーコードツールで「アプリを作って終わり」にする現場には、この「継続性」という概念が決定的に欠落していることが多い。

「動けばいい」
「今の業務が楽になればいい」

その短期的な成功体験が、長期的な「技術的負債」を積み上げていく。
ノーコード・プラットフォーム自体も進化し、アップデートされる。その時、現場の「市民開発者」たちは、自分の作ったアプリの互換性を検証できるだろうか。複雑に絡み合ったAPI連携が切れた時、その通信ログを追ってトラブルシューティングできるだろうか。

民主化とは、権利を与えることだけではない。それに伴う「保守」という義務を共有することだ。だが、多くの「民主化ツール」の宣伝文句には、この泥臭い保守義務についての言及が、驚くほど欠けている。

現場リーダーとしての「統治」と「共生」

アラフィフになり、名刺から「課長」という管理職のラベルを剥がした私は、今、あえて現場の最前線でこの問題に対峙している。
私は、現場による自律的な改善そのものを否定したいわけではない。むしろ、IT部門がすべてのニーズを拾いきれない現状において、ノーコードのようなツールは、適切に扱えば強力な武器になることも理解している。

しかし、そこに「設計思想(アーキテクチャ)」がなければ、それはただのゴミの山を築く作業に等しい。

リーダーとしての私の役割は、現場の暴走を止める「警察官」になることではない。現場が作る「野良アプリ」を、いかにして「持続可能なシステム」に昇華させるかのガイドラインを引く、いわば「都市計画家」であるべきだと思っている。

「作るのは自由だ。ただし、この命名規則を守り、このドキュメントを残し、退職時の引き継ぎフローを確立せよ」
「複雑なロジックを組むなら、そこからはプロの領域だ。我々にバトンを渡せ」

そんな、現場とプロの境界線を再定義する作業。それこそが、ベテランエンジニアが令和の時代に果たすべき、新しいマネジメントの形なのかもしれない。

サステナブルな開発を求めて

雨音を聞きながら、私はディスプレイに向かい、Qiitaやnoteの記事をチェックする。そこには「ノーコードで人生が変わった」という希望と、「野良アプリの保守で現場が崩壊した」という絶望が、同時に流れている。

私たちが「エクセル職人の悪夢」から学んだ教訓は、たった一つだ。
「作った人間以外が触れないシステムは、いずれ毒になる」

システムとは、単なるコードやツールの塊ではない。それは、人が入れ替わり、時代が変わっても動き続ける「業務の血液」でなければならない。
「誰がメンテするんだ?」という私の不安は、システムの尊厳を守りたいという、SEとしての最後の矜持なのかもしれない。

お疲れ様です。
もし今、あなたの職場で「勝手にアプリを作るブーム」が起き、その後の惨状を予感して震えているなら、その予感は正しい。
私たちは、キラキラした宣伝文句に踊らされることなく、その裏側にある「運用」という名の暗闇に、そっと灯りを灯し続けなければならない。

名もなき野良アプリが、いつか誰かの重荷にならないように。
そのための冷徹な仕様チェックこそが、アラフィフの私の、今日という日の「出力(アウトプット)」なのだ。

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