【Back to the 過去】1992 第10話「生徒アンケートが教えてくれた夜」
《57歳の教育家「山口さん」が、若い頃の「山口先生」を思い出す話。【登場人物】毛馬豪(けまごう)・・・山口青年より3歳年上。元ヤンだが面倒見がよく、神戸大学卒の人気講師。寺田先生・・・山口青年の直属の上司ちょくさん・・・教え子で今は「居酒屋ちょくちょく」のマスター》
塾では、年に何度か生徒アンケートが行われる。
「授業はわかりやすいですか」
「成績は上がりましたか」
「この先生の授業に満足していますか」
「これからも担当してほしいですか」
そんな質問に、生徒たちが5段階で評価をつける。
入社して半年。
生徒たちとも打ち解け、自分なりに手応えを感じ始めていた頃だった。
ところが、返ってきたアンケート結果を見て、私は言葉を失った。
「5」を付けてくれた生徒は多い。
でも、その一方で「1」や「2」を付けている生徒が数人いた。
その数字が全体の評価を大きく下げていた。
数日後、本部長に呼ばれた。
「山口くん、5が取れることは悪くない」
「でも、1や2が付くということは、授業そのものを見直す必要があるんじゃないかな」
返す言葉がなかった。
さらに追い打ちをかけるように、同期の毛馬豪先生の結果を知った。
最高評価の「5」がずらりと並び、「1」や「2」はひとつもない。
あったとしても「3」がひとつだけ。
新人とは思えないほど安定した評価だった。
本部長に注意されたことももちろん堪えた。
でも、それ以上に、同期との結果の差が胸に刺さった。
授業では負けていない。
そう思っていた自信が、静かに崩れていった。
その日の授業後、教室長の寺田先生に、本部長から言われたことをそのまま報告した。
「アンケートの数字にばらつきがある。5を取れることはいい。でも、1や2があるということは、授業そのものを見直した方がいいんじゃないかって…」
寺田先生は最後まで黙って聞き、
「そうか」
とだけ言った。
それ以上、何も言わず、その日の授業は終わった。
時計の針が十時半を回り、生徒たちが帰ったあとだった。
「山口くん、このあと用事あるか」
「いえ、特にないです」
「じゃあ、僕の車に乗りなさい」
教室を出ると、寺田先生のプレリュードが駐車場で待っていた。
低いシートに体を沈める。
助手席から見上げる夜景が、いつもより少し遠く感じた。
寺田先生は黙ったまま車を走らせ、近くの居酒屋へ入った。
「好きなものを頼みなさい」
焼き鳥や刺身をつまみながらも、アンケートの数字が頭から離れない。
店を出ると、今度はスナック「ゆき」へ向かった。
カウンターに腰を下ろし、サントリーオールドの水割りを口にする。
灰皿には短くなったセブンスターが何本か残っていた。
氷がグラスの中で、小さく乾いた音を立てる。
しばらく世間話をしたあと、寺田先生が静かに切り出した。
「山口くん。どうしたら、1や2が減ると思う」
少し酔いも回っていた私は、肩をすくめた。
「わからないです。でも、嫌いになるやつは嫌いになるんじゃないですか。全員から好かれるなんて、無理ですよ」
寺田先生は笑わなかった。
水割りをひと口飲んでから、静かに言った。
「山口くん、生徒は鏡なんだよ」
私は黙って続きを待った。
「もちろん、どうしても合わない子はいる。でもね、多くの場合、先生が先にその子を遠ざけているんだ。こっちが好きになれば、向こうも好きになってくれることが多い。逆に、先生の方が『この子は困った子だ』と思い始めると、その空気は必ず伝わる」
私はグラスを見つめた。
確かに思い当たる生徒がいた。
授業をちゃんと聞かない。
ノートを言った通りに書かない。
忘れ物ばかりする。
そんな生徒には、知らないうちに言い方がきつくなっていた気がする。
氷がまた、カラン、と鳴った。
その音を聞きながら、私は寺田先生の言葉をぼんやり反芻していた。
