【Back to the 過去】1992 第1話「ケースにビール24本」
「社会人として初めて住んだところが『寮』だった」
わたしは、ビールを飲みほして、ちょくさんに言った。
「どんな寮だったんですか?」
ちょくさんが串を返しながら聞いた。
俺は少し笑った。
「今思い出しても、あれは面白かったな。」
目を閉じると、景色がゆっくりと変わり始める。
一九九二年三月。
バブルは終わったと言われていたが、街にはまだその余韻が残っていた。
高級車が走り、テレビでは「24時間戦えますか。」のCMが流れ、誰もが忙しく働くことを当たり前だと思っていた。
社員寮に着いたわたしは、目の前の建物を見て思わず立ち止まった。
「……ここが寮?」
寮と聞いていたから、廊下の両側に個室が並び、共同の食堂や風呂がある建物を勝手に想像していた。
ところが実際は、住宅街に建つごく普通の一軒家だった。
4LDKの大きな家。
「ここが、山口さんの住まいですよ」
人事部長にそう言われても、実感は湧かなかった。
家の中には、すでに二人の同期がいた。
一人は佐藤先生。
九州屈指の難関大学を卒業し、アメリカ留学の経験もある英語教師だった。
発音は驚くほどきれいで、スポーツも万能。
明るく、人懐っこく、誰とでもすぐ打ち解ける。
入社したばかりなのに、社長のお気に入りだった。
実は、わたしが入社する少し前、この会社では大きな出来事があった。
副社長が多くの社員を連れて独立し、会社が分裂したのだ。
責任を感じた社長は、自ら高級車を手放し、しばらく軽自動車に乗っていたらしい。
半年ほど経ち、再び高級車に戻ることになった社長は、その軽自動車を佐藤先生に譲った。
「君ならきっと活躍してくれる」
そんな期待も込められていたのだろう。
もう一人の同期は吉田先生。
わたしより五歳ほど年上の数学教師だった。
背が高く、眼鏡をかけ、初対面では少し近寄りがたい雰囲気がある。
けれど、話してみると驚くほど面白い。
毎朝筋トレをするのが日課だった。
後に配属先の上司から厳しい評価を受け、苦労することになる人でもあった。
わたしは空いていた個室を選んだ。
残っていたもう一部屋は、リビングとつながった和室だった。
襖を開ければすぐ居間。
さすがに落ち着かないと思い、個室を選んだ。
数日後、九州から栗原先生がやって来た。
「よろしくお願いします」
そう言って現れた栗原先生の荷物は、拍子抜けするほど少なかった。
「えっ、それだけですか?」
思わず聞いてしまうくらいだった。
丸顔で、いつも穏やかな表情。
「どこでもいいけん」
和室を案内されても笑ってそう答えた。
その言葉に、わたしたち三人は少し安心した。
もっとも何年も後になって酒を飲んだ席で、
「あの部屋は正直、腹立ったけんね」
と笑いながら本音を聞かされることになるのだが、それはまた別の話である。
その夜。
「歓迎会しよう」
誰からともなくそう言い出した。
酒屋に電話をして、ビールを一ケース。
二十四本。
スーパーで肉や野菜や惣菜を買い込み、四人だけの歓迎会が始まった。
乾杯。
最初は少し緊張していた空気も、一本、二本と空いていくうちに一気に和らいでいく。
学生時代の話。
九州の話。
塾の話。
将来の話。
笑って、食べて、また飲んだ。
「まだあるやろ」
そう思っていたビールが、気づけば一本も残っていなかった。
「えっ、もう二十四本なくなった?」
四人で顔を見合わせて笑う。
すると栗原先生が、
「まだあるけん」
そう言って、少ない荷物の中から一本の芋焼酎を取り出した。
「荷物少ないのに、焼酎入れてたんですか!」
部屋中が大笑いになった。
そこから先の記憶はあまり残っていない。
ビールを二十四本空け、焼酎まで飲み、笑って、しゃべって、気づけば全員へべれけだった。
社会人一年目。
二十二歳。
社会人としてやっていけるだろうか。
いい授業ができるだろうか。
生徒に認めてもらえるだろうか。
そんな不安は、あの夜だけはビールケース二十四本の向こう側へ消えていた。
「いい仲間だったんですね」
ちょくさんが笑う。
「うん」
わたしは日本酒をひと口飲んだ。
「今思えば、あの歓迎会で四人の距離は一気に縮まった」
「これから先、しんどいこともたくさんあったけど……」
少し笑って盃を置く。
「周りの人には恵まれてたと、今になって本当にそう思う」
