【Back to the 過去】1992 第14話「卒塾、また来いよ!」
57歳の教育家「山口さん」が、若い頃の「山口先生」を思い出す話。【登場人物】寺田先生・・・山口青年の上司。教室長。ちょくさん・・・教え子で今は「居酒屋ちょくちょく」のマスター》
公立高校の合格発表が終わると、中学三年生たちは塾を卒業する。
私たちはそれを「卒塾」と呼んでいた。
毎日のように教室へ通い、授業を受け、自習室で勉強し、分からない問題を抱えて質問に来ていた生徒たち。
そんな日々が、公立高校受験日を境に終わる。
嬉しい季節のはずなのに、どこか寂しさもあった。
公立高校の入試は、私立高校とは違う。
定員が280人なら、合格するのも280人。
どれだけ頑張っても、全員が笑顔になれる試験ではない。
この年、多くの生徒が地域のトップ校を受験した。
その中でも、誰もが合格を信じていたA君がいた。
ところが試験当日、A君は高熱を出してしまう。
それでも受験会場へ向かった。
しかし、本来の力を出し切ることはできず、不合格という結果になった。
教室中が言葉を失った。
一緒に頑張ってきた仲間だからこそ、第一志望に合格した生徒たちも、心から喜ぶことができなかった。
数日後、一組の親子が塾を訪ねてきた。
A君と、お母さんだった。
手には菓子折りがあった。
「先生、三年間、本当にありがとうございました」
山口青年たちは思わず言葉を失った。
教室長の寺田先生は深く頭を下げた。
「私たちの力不足でした。本当に申し訳ありません」
すると、お母さんは静かに首を横に振った。
「いいえ。あの日、たまたま体調が悪かっただけです。誰が悪いわけでもありません」
「この子、本当に塾へ通うのが楽しかったみたいなんです。家でも先生の話をよくしていました」
その言葉を聞いて、胸がいっぱいになった。
A君は教室を見渡し、小さく頭を下げた。
少しだけ寂しそうな表情だった。
私は心の中でつぶやいた。
「頑張れよ」
「また来いよ」
それから三年が過ぎた。
ある日、一人の青年が教室へやって来た。
A君だった。
「先生、京都大学に受かりました」
一瞬、耳を疑った。
あの日、高熱で涙をのんだ少年が、今は満面の笑みで目の前に立っていた。
「高校三年間、ずっと悔しかったんです」
「本当は行きたかった公立高校へ進んだ友達のことを考えるたびに、自分も絶対に大学受験では負けたくないって思っていました」
穏やかな口調で話すA君の言葉を聞きながら、私は三年前の卒塾の日を思い出していた。
あの日、悲しそうな顔で教室を後にした少年が、こんな笑顔で帰って来てくれるなんて。
あの頃の私は、想像もしていなかった。
人生は、一度の受験で決まるものではない。
遠回りに見えた道が、その人だけの未来へ続いていることもある。
だから、卒塾の日になると思い出す。
教室を旅立っていった、たくさんの生徒たちの背中を。
そして、心の中で今も同じ言葉を送っている。
「卒塾、おめでとう」
「また来いよ!」
「……という話があったんですよ」
話し終えた57歳わたし私は、グラスに残ったハイボールをゆっくり口に運んだ。
居酒屋「ちょくちょく」。
カウンターの向こうでは、ちょくさんが黙って焼き鳥を返している。
「いい話ですね……そのA君のお母さんも立派ですね。不合格やったのに、お礼を言いに来るなんて、なかなかできないですよね」
私は静かにうなずいた。
「そうなんだよ。だから余計に忘れられないんだ」
店内には、常連さんたちの笑い声が流れていた。
私は焼き鳥を一本手に取り、ふっと笑う。
「あの頃は毎日必死だったけど……振り返ってみると、ええ時代やったかもな」
ちょくさんは湯気の立つおでんをつつきながら笑った。
「山口先生。またあの頃の話、聞かせてくださいよ」
「そうやな」
私はそう言って、三十年以上前の教室へ、もう一度思いを巡らせた。
Back to the 過去 1992 episode1 《完》
