【Back to the 過去】1992 第13話「受験の空気」
冬期講習が終わると、塾の空気はさらに緊張度が高まるる。
私立高校入試まで、あと一か月。
春や夏のころの教室とはまるで違う。
笑い声は減り、生徒たちの表情も引き締まる。
授業では私立高校でよく出題される問題を中心に演習を重ねる。
教室には、独特の緊張感が漂っていた。
授業が終わっても、多くの生徒が自習室へ向かう。
先生の空き時間まで把握していて、
「先生、今いいですか」
と、問題集を抱えてやって来る。
質問は圧倒的に数学や理科が多かった。
解説を読んでも、どうしてそうなるのか分からない。
そんな問題を、一つひとつ先生が説明していく。
今思えば、不思議な光景だった。
当時の職員室は煙草の煙が漂っていた。
先生が灰皿の横で問題を解説し、生徒が真剣な表情でノートを取る。
令和では考えられないが、1993年の冬には、それが当たり前の風景だった。
張り詰めていたのは、生徒だけではない。
先生たちも私立入試、公立入試、新年度募集と、一年で最も忙しい時期を迎える。
一月からゴールデンウィークまで、ほとんど休みがない先生も珍しくなかった。
そして迎えた、私立高校入試当日の朝。
山口青年が勤めていた塾は住宅地にあり、生徒たちが利用する路線もほぼ一つだった。
先生たちは二つの駅に分かれ、まだ夜が明けきらないホームで生徒たちを待つ。
二月の朝は、とにかく寒い。
コートを着込み、手袋をしていても、指先が痛くなるほどだった。
やがて、一人、また一人と生徒がやって来る。
受験票を何度も確認する子。
小さな英単語帳を最後まで開いている子。
友だち同士でおしゃべりをしている子。
スマートフォンなんて、まだない時代。
みんな、それぞれのやり方で緊張と向き合っていた。
山口青年は一人ひとりに声をかけた。
「落ち着いてやれよ」
「ケアレスミスだけ気をつけろ」
「この数か月、お前が頑張ってきたことは知ってる。自信を持って行ってこい」
短い言葉だった。
でも、一年間一緒に走ってきたからこそ伝えられる言葉でもあった。
生徒たちは小さくうなずき、改札を抜けていく。
その背中を見送るたびに、
「頼むぞ」
と、心の中でつぶやいていた。
見送りが終わると、山口青年は、スーパー銭湯へ向かった。
冷え切った体を湯船につける。
ようやく指先の感覚が戻ってくる。
サウナに入り、うどんをすする。
ぼんやり時計を見る。
「今頃、問題用紙が配られた頃かな」
「みんな、落ち着いて解いてるかな」
湯気の向こうで、そんなことばかり考えていた。
受験するのは生徒だ。
でも、山口青年もまた、緒に受験していたのだと思う。
