【Back to the 過去】1992 第8話「癒しの印刷室」
《57歳の教育家「山口さん」が、若い頃の「山口先生」を思い出す話。【登場人物】谷村先生・・・山口青年と同期。低学年部門「どきどきスタディ」担当。毛馬先生・・・山口青年より3歳年上。元ヤンだが面倒見がよく、神戸大学卒の人気講師。本間さん・・・本部の印刷室担当。川村さん・・・印刷室のアシスタント。穏やかで優しい、本部のマドンナ的存在。ちょくさん・・・教え子で今は「居酒屋ちょくちょく」のマスター》
塾講師の仕事は、授業だけではない。
会議や研修がある日は、教室へ行く前に本部へ向かう。
教室で使うテストや教材を受け取ったり、会議に参加したり、小テストやプリントを印刷したり。
生徒の前に立っていない時間も、意外と忙しい。
そんな本部の一角に、小さな印刷室があった。
印刷室を担当していたのは、本間さん。
三十五歳くらいだっただろうか。
とにかく面倒見がいい。
「会議あるんやろ」
「印刷しといたるから、何部いるか紙に書いといて」
そんなふうに、いつも助けてくれた。
そして、その隣には川村さんがいた。
二十八歳くらい。
細身で、穏やかで、誰に対しても優しい。
本部のマドンナのような存在だった。
山口青年が印刷室へ行くと、
「山口先生、お疲れさまです」
そう言って、笑顔で迎えてくれる。
色用紙を手配してくれたり、
「これ、印刷終わってますよ」
と声をかけてくれたりする。
教室では毎日バタバタしていたから、その印刷室だけは時間がゆっくり流れているように感じた。
ある日だった。
毛馬豪が近づいてきた。
「山口」
「はい」
「最近よう印刷室おるんちゃう?」
「小テスト刷りに行ってるだけですよ」
「ほんまか?」
「ほんまですって」
毛馬豪は笑う。
「川村さんと、ようしゃべっとるやん」
「いや、あの人がいろいろ手伝ってくれるんですよ」
「……ふーん」
そう言ったまま、毛馬豪はどこかへ行ってしまった。
(何やったんやろ)
当時のわたしは、まったく気づいていなかった。
数日後、本部で松田さんと話している時だった。
「そういえば、川村さんが言ってましたよ」
「え?」
「山口先生見てると、弟さんを思い出すって」
「弟さん?」
「はい。弟さん、ちょっと放っておけないタイプらしいんです」
「山口先生と重なるから、ついつい世話を焼いちゃうって」
なるほど。
だから、あんなに親切だったのか。
長年の謎が解けた。
……でも。
出来の悪い弟か。
そこだけ、妙に引っかかった。
思わず苦笑いすると、
松田さんが吹き出した。
「山口先生、そこ気にするんですね」
「そら気になるよ」
そう言って笑った。
※※※
「今日は、印刷室のことを思い出してた」
居酒屋『ちょくちょく』で、わたしは二杯目のジョッキを開けた。
ちょくさんが少し驚いた顔をする。
「先生たちって、授業するだけじゃないんですね」
「そうやで」
わたしは笑った。
「授業は夕方五時から十時くらい。五時間は生徒が来る”授業タイム”や」
「じゃあ、一日八時間勤務なら、残りの三時間は何をしてるんですか」
「それが結構忙しいんや」
わたしは指を折りながら数えた。
「教材を作る」
「小テストを作る」
「保護者へ連絡する」
「会議や研修で本部へ行く」
「印刷もする」
「テストの採点もする」
ちょくさんは感心したようにうなずく。
「授業以外の仕事の方が、思ってたより多いんですね」
「そうなんよ」
わたしも笑った。
「生徒の前に立ってる時間だけが、先生の仕事やない」
「見えへんところで準備してる時間があるから、授業ができるんや」
ちょくさんは静かにうなずいた。
「だから先生にとって、印刷室は特別な場所だったんですね」
「そういうことや」
わたしは新しいジョッキを手に取り、ゆっくり口をつけた。
あの印刷室は、教材を作る場所でもあった。
そして、忙しい毎日の中で、ほんの少し心を休ませてくれる場所でもあった。
