【Back to the 過去】1992 第4話「生意気なやつ」
《57歳の教育家「山口さん」が、若い頃の「山口先生」を思い出す話。【登場人物】ちょくさん・・・教え子で今は「居酒屋ちょくちょく」のマスター》
春期講習が終わり、新学年の授業が始まった。
子どもたちは『ぷよぷよ』や『ゼルダの伝説』の話で盛り上がり、女子は光GENJIやB'zの話題で騒いでいる。
平成が始まって間もない頃。
二十二歳になった山口青年も、新人講師として毎日必死だった。
授業にも少しずつ慣れ、生徒の名前もようやく覚えてきた頃だった。
同期に谷村先生という女性講師がいた。
小学校低学年クラスの担当。
いつも違う服を着てきて、おしゃれだった。
どうやら、どれもブランド物らしい。
毎日きちんと髪を整え、授業の直前に教室へ入ってくる。
「またギリギリか……」
内心、あまりいい印象を持っていなかった。
ある日、職員室で二人きりになった。
「谷村先生、もう少し早く教室に来た方がいいんじゃないですか」
谷村先生は書類をカバンにしまいながら言った。
「間に合ってますよ」
「でも子どもたち、二十分前には来てますよ」
「本部で教材を作ったり、低学年チームの打ち合わせがあったりするので」
「それでも担当の教室には早くいた方がいいと思います」
谷村先生は少しだけ俺を見た。
「山口先生は本部の仕事がないから、そう言えるんですよ」
少し空気が張った。
すると今度は谷村先生が言った。
「それと。」
「はい?」
「ネクタイ、それ先週も同じでしたよね」
「……え?」
「ワイシャツもしわがあります」
「そんなの授業と関係ないでしょう」
「ありますよ」
「どこがですか」
「思春期の子って、先生の服装とかけっこう見てますから」
「俺は授業で勝負しています」
谷村先生は少し笑った。
「私は両方ですね」
なんだ、その言い方。
生意気な奴。
そう思った。
その日の夕方だった。
授業開始まで十分。
低学年クラスの前から大きな泣き声が聞こえてきた。
教室の中を見ると、小学一年生くらいの女の子が、泣いている。
教室責任者の寺田先生がわたしを見た。
「山口くん、悪い。ちょっと行ってくれ」
「はい」
わたしは女の子の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫やで」
泣き止まない。
「いすに座ろうか」
首を横に振る。
「みんな優しい子ばっかりやから」
さらに泣く。
どうしたらいい。
時計を見る。
授業開始まであと三分。
……谷村先生、何やってんねん。
その時だった。
「すみません、お待たせしました!」
谷村先生が小走りでやって来た。
俺は心の中で思った。
今さら来ても遅いやろ。
ところが谷村先生は慌てなかった。
女の子の前にしゃがみ、目線を合わせる。
「のぞみちゃん、こんにちは」
そう言って、そっと手をつないだ。
「先生とちょっとだけ、お散歩しよっか」
二人は教室の外へ出て行った。
何を話しているのかは聞こえない。
一分ほどして戻ってくると、さっきまで大泣きしていた女の子が笑っていた。
「せんせい、べんきょうしよ!」
そう言って、自分から教室へ入っていく。
俺はただ立ち尽くしていた。
……なんでや。
授業は、そのまま何事もなかったように始まった。
カウンターの上には、少し冷めた焼き鳥と、半分だけ残ったハイボールがあった。
「結局な」
わたしはグラスを指で回しながら言った。
「今でも、あの時、谷村先生があの子に何て言ったのか、俺は知らんねん」
厨房で調理しているちょくさんが、少し笑った。
「聞かんかったんですか?」
「聞かれへんかったんやろな」
わたしは苦笑いした。
「こっちは偉そうに、もっと早く来いとか、服なんか関係ないとか言うてたわけやから」
焼き鳥の串を一本取って、皿の端に置いた。
「あの時の俺には、あの子を泣き止ませることはできへんかった。でも谷村先生は、たった一、二分でやってのけた」
「すごいですね」
「すごかったよ」
少し間を置いた。
「チャラチャラしてようが、授業ギリギリに来ようが、そんなもん関係なかった。生徒のありようを一瞬で変えられる力。それが、塾講師にとっては何より大事なんやと思った」
ちょくさんは黙って聞いていた。
「同い年で、同期やった。でもあの日、俺は完全に負けた」
「谷村先生に?」
「いや」
わたしは少し笑った。
「自分の物差しだけで人を見てた、二十二歳の俺にやな」
店の奥で、誰かが笑った。
カウンターの向こうでは、店主が黙ってグラスを拭いていた。
「生意気な奴やと思ってたけどな」
俺はハイボールを一口飲んだ。
「一番生意気やったんは、俺やったんかもしれん」
