見出し画像

ポール・ブールジェ「アルフレッド・ド・ミュッセに関して」

ポール・ブールジェ「アルフレッド・ド・ミュッセに関して」『パルルマン』1880年5月6日号

 ミュッセが死んでから20年が経った。彼が数々の傑作を書いてからはもう40年になる。伝え聞くところでは、彼は早逝したのではなかったらしい。彼は早い時期に筆を折った。ハインリヒ・ハイネは、邪悪な悪意を口のうまさで覆い隠すドイツ訛りで、彼について「彼は全く輝かしい過去を持つ若者だ」と語った。確かに、その輝かしさは彼の名声を不滅にするに足るほどである。『戯れに恋はすまじ』と『夜』が書かれてから40年という長い歳月を経た今でも、この怠惰な詩人は、今もなお私たちの心を最も強く打つ人物である。1857年には、まだ彼の葬列についていく年齢に達していたなかった私たちにとってさえだ。その証拠に、日曜日、学校の青少年委員会がトロカデロ・ホールで、すでに老いたこの世紀でも運命の寵児であり恐るべき子供でもあり続けている彼を讃える祭典が開かれる。[注1]サラ・ベルナール嬢が寄付金を集め、集まったお金はペール・ラシェーズ墓地にある彼の墓を美化するために使われることになっている。ーーその小綺麗な墓を、田舎から出てきたばかりの学生たちは敬虔に訪れ、ネヴァ川の沿道の貴婦人たちやリュクサンブールの近くの小婦人たちは巡礼の最終地に選ぶ。その墓に憂鬱はなく、ただ今にも自ら死のうとしている柳が泣くように髪を乱れさせる時だけ悲哀が覗き込む。
 長い間そして今も、アルフレッド・ド・ミュッセは、若者たちが自分の私的生活に結びつけて好んでいる詩人である。ーーリズムに重きを置いた骨組みの上に、若者たちの想像力と夢を刺繍した彼の詩。原初的な欲望の抑え難くほとばしること、愛を信頼することで魂が開くこと、若者二人が唇を合わせると世界を完全に忘れてしまうこと、青春の絶望の中にあっても希望が無限に湧き上がってくることなどを、彼ほど表現したものはいない。時は、我々にとって最も有名な作家らの多くのページの余白に、皮肉めいた「トル」の文字をつけてしまうものだ。[注2]しかし、ミュッセの作品は全て、今では死人か老人だが昔は可愛かった女性読者らがうっとりとした目で読んだ時と同じくらい、新鮮で感動的である。彼女らが目にしていたのは、ユルバン・カネ社から出た初版の『スペインとイタリアの物語』や『肘掛け椅子で見る劇』にある、神がかった歌だった:

ニノンよ、ニノン。お前は人生で何をする?
時は過ぎ去る。日は一日一日過ぎる。
欲なきお前はどう生きる?
愛なきお前はどう生きる?[注3]

 しかし(人間に関するあらゆるものに「しかし」があるのだ)新しい世代が生まれるたびに人生と幸福に関する空想が生まれ、その空想は自分たちの新しい独創的な魅力を作り出すことで、過去にも独創的な魅力を作り出す。すでに我々の世代は、ミュッセが語り魅了した世代からあまりにも遠く、多くの彼の韻文詩は今日の我々の感覚からすると奇妙に思えてしまう。私自身は彼を非常に高く評価しており、彼の特徴のいくつかがすでに我々のものとかけ離れてしまっていることを指摘するのは、批判にはならないだろう。ぱっと目につくその特徴のいくつかをここで示したい。そうすることで、この50年の間にフランスの若者がたどってきた道をまとめるて示すことにもなるだろう。


 その特徴の一つ目は、全く外見的な特徴で、優雅さの質である。麝香の香りのするアルフレッド・ド・ミュッセは中学校の同僚らから「もみあげ王子」と呼ばれ、若くしてこの世を去るまで25歳の頃の細身とブロンド髪を保ち、1830年代の豪華な生活における流行、我々の俗な言い方で「シック」と呼ぶようなもう消えてしまった特徴をいくつも具現化したような人間であった。常連客しか入れないカフェ・ド・パリ、「ライオン」や「黄色い手袋」の女たちが手すりに肘をかけているトルノ二・カフェの階段[注4]、夏はバーデンの会話の館のサロン[注5]、春はチュイルリーの並木道で、冬はガン大通りの歩道、ーーこれらは、マルドッシュたちやオクターブたち[注6]がガヴァルニ風のフロックコートにつば広の帽子、そしてナンキン生地のズボンを履いて闊歩する、お決まりの風景である。このような装飾や衣装は、私たちから離れている。さらに離れているのは、このフランス的な冗談で、『杯と唇』の序文、『ナムーナ』、社交界の格言などに見られるイギリスの模倣によって、むしろ18世紀に近いものとなっている。
 さらに、そして最も離れているのは、『世紀児の告白』の主人公を放蕩に陥れ、マルドーシュを「目と歯しか役に立たないイギリス犬」と二人きりで閉じ込め、ローラをマリオンのベッドに横たわっていた黒い小瓶を空にしてしまうような、憂鬱のニュアンスである。彼らは第一帝政の後の時代を生きたフランス人だ。栄光の炎が世紀の夜明けを赤く染め、彼らの髪までも金色に輝かせた。彼らが苦しんでいるのは、英雄叙事詩の中で育ち、ブルジョワ生活に囲まれていたことである。彼らの存在の根底で何かがうごめき、当然、彼らを過剰なもの莫大なものへと駆り立てる。もし文学的な趣味があれば、彼らはそれを情熱に変える。ゆったりとした時間の繊細な娯楽、美しい文体、美しい韻文などを、彼らは戦いの武器に変え、「エルナニ」を合言葉に『エルナニ』の初演へと足を運ぶ。18世紀の晩餐を楽しませた陽気な疑い深さは、シャンパンと一緒に提供され、シャンパンと同じようにピンク色で泡立ち、それらは濁っていて、苦く、毒の入った飲み物となった。それは二重の悲劇であり、多くの不安のおかげでほとんど敬虔な喜劇だともいえるだろう。500年もの間、私たちの物語作家らによって笑い話にされてきた結婚生活の不幸は、彼らにとっては不倫の陰気なドラマである。奇妙な錬金術によって、彼らはこのように自らの生活全体を暗くしてしまう。まるで、過度の心配が病人に永遠の陰鬱を引き起こしてしまうように、フランスはヨーロッパの崩壊という衝撃にあまりにも激しく揺さぶられ、生来の陽気さを失ってしまったように思われる。このフランス人の精神が闇に覆われていく様を、ミュッセは新鮮な色彩で描き、明晰な理性で説明する。彼の創作に登場する若者は、いつも同じ人物、つまり「十二月の夜」の「まるで兄弟のように彼に似ていた」存在であり、その名前がフランクであろうとペルディカンであろうと、ダルティであろうとヴァランタンであろうと、ロレンザッチョであろうとデジュネであろうと[注7]、この過剰な生活へのノスタルジーを癒せずにもったままでいる。彼がこのノスタルジーを連れて歩く世界の物質的幸福、社会的安定は、失われた力の感覚の中により強く彼を押し込むばかりである。


 この世紀病は、今やしっかり治った、もしくは少なくとも年が経つにつれて大きく変化したように私には思える。オロントのソネット[注8]のように、ミュッセの時代の若者たちは、多くの希望を持ったために絶望したのである。彼らは人生にあまりにも多くを求め、その嫌悪感はまさにある種の信仰だった。ある世代を、それが本、新聞、会話などの中で自らを表現するものから判断することができるとすれば、今日の若者たちは、これから足を踏み入れる世界に対して、それほど信頼を寄せているとは思えない。むしろ、彼らは人生に十分な信念を持たず、少ししか求めていないと非難すべきだろう。ミュッセの頃とは違い、彼らの青春の地平上に第一帝政の輝きはなく、むしろあるのは廃墟、国の衰退、血なまぐさい敗北、それに続く最悪の政治不安――「恐怖の一年」[注9]の後と同じくらい暗鬱で、10年も続く不安である。あらゆる制度が、次々と試され、次々と社会の亀裂を修復する力がないことが認識され、次第に彼らは壮大なるユートピアに無関心になり、現実的な方法が彼らの思考にゆっくりと根付いていった。それによって、彼らは暴力的な絶望を逃れたが、同時に空想的とはいえ人間の心を掻き立てる熱意を奪われてしまったのである。考えた上のあるいは無意識的な実証主義は、私生活の進展においても公的生活の危機においても、彼らをその場限りの解決策、穏健なものの見方、そしてかつてある政治家が全く異なる考えにおいて「オポルチュニスム」と呼んだもの[注10]へと方向付けてしまう。文学において支配的な嗜好はもはや見事な雄弁、大胆な光景、鮮やかな色彩ではない。それは、綿密な観察、真実の描写、そして正確な詳細へと向かっている。ルコント・ド・リール氏の精神をもつ詩人たちが洗練された人々の大好物であり続ける一方で、大衆の読者は自然主義作家の小説に群がる。なぜなら、現実の細部を餌にすることでしか、冷徹な想像力を惹きつけられないからである。その想像力は、我々が活動している科学の空気感がしみ込まされ、多くの高尚な夢の挫折にさらされてしまっている。無関心と無気力が、我々の世紀末における真の病である。かつて、抑えきれない情熱とロマン主義者らの激怒が世紀はじめの疫病であったのと同じだ。ギュスターヴ・フロベール氏が『ボヴァリー夫人』を書くことで、叙情詩がしばしば隠してしまっていた、凡庸たる不幸や、最も壮大な欲望も不幸な結末にいたることなどを示した時、聡明な批評家たちは、文学の発展とともに必然的に社会的な変化が起こることを予見することができた。サント=ブーヴは間違っていなかった。20年以上が経った今でも、彼の論文を読み直せば、その発展は論理上で展開された通りに始まっていたことが容易に理解できる。


 それにしても!確かに、作品の一部は仕方なくゴミにはなったが、ミュッセは依然として生き生きとしている。心の中には変化しない何かがあり、少しの作家しかそれに触れることはできないが、それに触れられた作家は決して過去のものにならない。この滅びない何かを、ミュッセは修辞のない韻文の中で、簡潔で力強い言葉によって何度も表現した。彼はそれによって若々しく人間的な魅力を保った。それが彼を、シャトーブリアン――そうはいっても、偉大な作家だが――や、かつて名声を誇った大押韻派の作家らのように、博識だが生気のない好奇心の対象にしかならなくなってしまうことから守ったのだ。個人の生活が散在し、世間の関心が物憂げになったことで、皆に愛され、皆のために歌う新しい詩人のほとんど現れなくなった今日でさえ、ミュッセは、ラマルティーヌとユーゴーの脱落をよそに、聖なる三人の詩人の一角であり続けているかもしれない。彼は、私たちが敬服する詩人ではなく、最も愛し、これからも共に生きる詩人なのである。かつて、ミュッセの同時代人らは、たった15人だけの葬列で彼の思い出へのお返しとしたのであった。今度の日曜日に祭典を企画し、彼の墓を飾った若者たちは、その時にできてしまった負債の、ほんの一部を償うにすぎない!

ポール・ブールジェ

Paul Bourget, « A propos d’A. de Musset », Parlement, le 6 mai 1880.

[注]
1:この記事が出た3日前の5月2日、クリュニー劇場にてミュッセを讃える集会がサラ・ベルナールによって催される予定だったが、5月9日(日)に延期されたことを踏まえている。(le Voltaire, le 3 mai)ちなみに、この時期コメディー座ではミュッセの「扉は開いているか閉じているかしていなければならない」という戯曲が上演されており、ミュッセが人々に忘れられていなかったことがわかる。ベルナールは『ロレンザッチョ』のコメディー座における初演でロレンゾ役を演じており、これ以降、長い間ロレンゾは女性が演じるという定番が生まれた。
2:古い本には、ブールジェの時代の小説法であれば「トル」と校正されてしまいかねない冗長な表現が多く入っているという意味。ユゴーやバルザックがそれにあたるだろう。
3:この歌は『肘掛け椅子で見る劇』の第一場面で挿入される歌で、「ニノンに送るセレナード」« La Sérénade à Ninon »として、セザール・フランク、ガブリエル・デュポン、レオ・デリーブなどによって幾度も曲が付けられていた。しかし、ブールジェは歌詞を覚え間違えているようで、正しくは以下である:
Ninon , Ninon , que fais-tu de la vie ?
L'heure s'enfuit ; le jour succède au jour.
Rose ce soir, demain flétrie,
Comment vis-tu , toi qui n'as pas d'amour.
ブールジェの原文に « Le temps s’en va »(時が過ぎ去る)とあるところは、 « L'heure s'enfuit »(時は逃げ去る)とあり、三行目の« Comment vis-tu , toi qui n'as pas d'amour. »(欲なきお前はどう生きる?)とあるところは、« Rose ce soir, demain flétrie »(今宵のバラは明日にはしおれる)と全く異なっている。
4:Café Tortoni トルノニ・カフェはミュッセが通ったカフェの一つで、有名な作家らが多く出入りしていたことで知られる。高級娼婦も多く出入りしており、「ライオン」や「黄色い手袋」などは彼女らのことを指すと思われる。
5:バーデン=バーデン郊外のクアハウスという施設にあるDas Conversationshaus という施設のこと。ミュッセはジョルジュ・サンドと別れてヴェネチアを去った後、パリからも逃げ、バーデン=バーデンで過ごしている。
6:les Mardoche, les Octaveは「マルドッシュ家」「オクターヴ家」ではなく、マルドッシュたち、オクターヴたちという意味だろう。前者は『スペインとイタリアの物語』内の「オクターヴ」、後者は『世紀児の告白』の主人公であり、どちらも恋に苦しむ青年である。
7:ミュッセの「夜」の連作の最後4作目にあたる「十二月の夜」は「詩人」と影の対話によって構成されている。その影がここでいう「まるで兄弟のように彼に似ていた」存在である。その後出てくる名前は、フランクは『杯と唇 la Coupe et les Lèvres』、ペルディカンは『戯れに恋はすまじ』、ヴァランタンは『なにごとも誓うなかれ Il ne faut pas juger de rien』、ロレンザチョは『ロレンザチョ』、デジュネは『世紀児の告白』の登場人物。
8:モリエール『人間嫌い』の第一幕に出てくるソネット。以下に、新潮文庫の内藤濯訳を引用して掲載する:
  希望こそげにわれらを慰め、
  一ときはわれらの苦しき胸をなごましむ。
  されどフィリスよ、希望ありともはかなし、
  のぞみにつづく喜びの絶えてしなくば。

  濃やかなりしそのかみの君がなさけを、
  何ゆえの情けぞとうらみ侘びつつ、
  いたずらに咲きにおう花をしのびて、
  たよりなき希望のみたのむ物うさ。

  時じくにその日を待ちて胸の火の、
  狂うがほどに燃えもたけらば、
  死出の山路に入らんこそ心やすけれ。

  あゝ君が心づくしの数々もいまはうたてし、
  うつくしきフィリスよ、来ぬ日の幸を、
  とことわに待ちてあるうつし身の幸なさよ。
(モリエール『人間ぎらい』(内藤濯訳)新潮文庫、1952年、21-22頁。)
*あえて鈴木力衛訳でなく、ブールジェの『弟子』を訳した内藤の訳を引用した。
9:l'Année terrible「恐怖の一年」とは、フランス革命の国民公会期の終盤にロベスピエールが恐怖政治を行った1893年7月から1894年7月までの一年間のことを指す。
10:l'opportunisme「オポルチュニスム」とは、この記事が書かれた第三共和政初期に政治権力を握っていたジュール・フェリー、レオン・ガンベッタなどの政治家を中心とする穏健共和派を意味する。opportunismeという言葉は現在の意味では「日和見主義」を意味するが、当時、否定的な意味合いはなく、むしろ現実主義の「機会主義」という意味だった。


いいなと思ったら応援しよう!