テヘランの夜明けに、تهران
冷たい風が、まだ街の埃を揺らしている。
遠くで、夜のサイレンが
まだ消えきらないまま。
そのなかで、あなたの声だけが白く漂い、
誰にも気づかれないまま、
祈りのように、そっと震えていた。
けれど今、
その風はもう、ただの朝の風ではない。
崩れた壁の粉を運び、
昨夜まで窓だった場所を撫で、
名前を失った通りの上を、
何も言わずに通り過ぎていく。
――――――――――
あなたが「世界一美しい」と笑った
テヘランという、その響き。
それは、古い傷跡をなぞる指先が
いつか拾い上げた、
ひかりの結晶。
だが結晶は、
ただ美しいだけではなかった。
砕ければ、
指を切る。
祈りが深い街ほど、
壊れるときの音は静かだ。
誰も叫ばないまま、
大切なものだけが順番に失われていく夜がある。
――――――――――
言葉にならない影が
胸をかすめる夜があっても、
あなたの呼吸が
この空気に混ざるだけで、
世界はほんの少し、
優しさを思い出す。
けれどその優しさは、
いまやあまりにもか細い。
煙に包まれた朝の街では、
やさしさだけでは屋根を戻せず、
やさしさだけでは眠れぬ子どもの耳を
塞いでやることもできない。
それでもなお、
人は呼吸する。
瓦礫のそばで。
濁った水辺で。
昨日まで家だった場所の前で。
その呼吸だけが、
まだこの街が生きていることの
最後の証(あかし)になる。
――――――――――
沙羅の花が静かに散るように、
失われていく小さな物語。
誰にも報道(しら)されないまま、
静かに消えていく日常。
けれど、あなたが耳を澄ませた
その響きの奥には、
まだ水が流れている。
誰かがそっと置いていった
希望のように。
だが今、その水は
ただの希望ではいられない。
灰を映し、
火の粉を受け止め、
空の色さえ傷として抱え込みながら、
それでも流れている。
文明は、
いつも水辺に生まれた。
そして壊れるときもまた、
水だけが
最初からすべてを見ている。
――――――――――
道は、遠くにあるんじゃない。
あなたの靴を汚した
その泥のなかに、
誰にも奪えない
星座が隠れている。
けれどその泥はもう、
ただの土ではない。
崩れた石の粉、
燃えた木の灰、
泣き声を飲み込んだ夜の湿り気、
帰らなかった人の時間。
それでも人は踏みしめる。
明日に向かうためではなく、
今日を見失わないために。
足を汚しながらしか
守れない尊厳がある。
――――――――――
夜明けが街を
灰色に染めるとき、
テヘラン、تهران。
その名を、
もう一度だけ呼んでみて。
それは、
あなたと世界が
再び出会うための
はじまりの音。
だがその“はじまり”は、
以前と同じ朝ではない。
焼け跡の上で迎える朝。
祈りが間に合わなかった場所にも
等しく差し込んでしまう朝。
希望というには痛すぎて、
絶望というには、
まだどこか美しすぎる朝。
だから人は、
名を呼ぶ。
都市の名を。
失われた日常の名を。
まだここに在る誰かの名を。
名を呼ぶことだけが、
破壊に対して
人間が最後まで手放さない
抵抗になるから。
――――――――――
語り継がれる歴史よりも、
あなたの胸の
その高鳴りこそが、
真実だ。
朧月夜に溶けていく祈り。
あなたの声が、
どうか、
明日へと届きますように。
たとえその明日が、
昨日より美しい国ではなくても。
たとえその明日が、
瓦礫と煙と沈黙の続きを
生き延びるだけの朝だとしても。
それでも。
水が流れるかぎり、
呼吸が残るかぎり、
名を呼ぶ声が絶えないかぎり、
この街はまだ、
完全には奪われていない。
テヘラン。
تهران。
その名の奥で震えているものを、
私はまだ
祈りと呼びたい。
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