🩺 社会にメスを|会社は、誰かの獲物ではない
――「正しい資本」が実業を食い始めるとき、私が反吐を覚える理由――
北国の雪の朝。
まだ街が完全には目を覚ましていない時間から、バスを走らせる人がいる。
寒風のなかで灯油を届ける人がいる。
工場では、昨日とはほんの少し違う機械の音に気づく人がいる。
事務所では、何十年も付き合っている取引先の名前を見ただけで、
「あそこは今月、少し待ったほうがいい」
と察する人がいる。
彼らは天才ではない。
華々しい経歴があるわけでもない。
それでも頭を寄せ、泥臭い工夫を積み重ね、今日まで会社を残してきた。
彼らが守ってきたものは、時価総額でも、PBRでもない。
もっと単純で、もっと重いものだ。
今日を潰さず、明日へ渡す。
私は、それが実業だと思っている。
Ⅰ|ある「正しい主張」を読んで、私は気分が悪くなった
最近、ある地方企業を巡る株主提案の記事を読んだ。
歴史のある地域インフラ企業。
株式の持ち合い。
低い市場評価。
大きな含み資産。
そして、それを問題視する外部株主。
ガバナンスを改善せよ。
眠っている資産を活用せよ。
企業価値を高めよ。
言っていることは分かる。
市場から低く評価されている。
資本効率が悪い。
資産活用が不十分だ。
経営陣への牽制も弱い。
数字だけを渡されれば、私だって同じ指摘をするかもしれない。
それでも読み進めるうちに、私はどうしようもなく気分が悪くなった。
しばらく考えて、その理由が分かった。
私が嫌だったのは、主張の「正しさ」ではない。
実業の上に立ちながら、実業そのものを見なくなる目。
その視線だった。
Ⅱ|私は金融を否定しているのではない
私は金融を敵視していない。
投資家を否定するつもりもない。
経営者である以上、金融から逃げることなどできない。
金利を見る。
為替を見る。
PLを見る。
BSを見る。
キャッシュフローを見る。
借入も、設備投資も、M&Aも、企業価値も考える。
会社が善意だけでは一日たりとも回らないことを、私は嫌というほど知っている。
資本は必要だ。
金融も必要だ。
問題は、そこではない。
私が嫌いなのは、
資本が実業を支える道具であることをやめ、実業そのものを食い始める瞬間だ。
Ⅲ|決算書には、会社の「体温」が載っていない
地方の会社には、数字では測れない体温がある。
創業者の代から会社にいる人。
親子二代で働いている人。
何十年も買ってくれている顧客。
会社が苦しかった時代にも取引を切らなかった仕入先。
返済計画を一緒に考えた金融機関。
そして、その会社がなくなると本当に困る地域の人々。
BSには土地の値段は載る。
建物も、設備も、現預金も載る。
だが、
「あの会社なら何とかしてくれる」
という地域の記憶は載らない。
社員同士が何十年も積み上げた呼吸も載らない。
吹雪の日に一本の路線を走らせ続けてきた時間も載らない。
だからといって私は、PBRやROEを否定しない。
便利な道具だからだ。
ただし、一つだけ忘れてはいけない。
非効率であることと、無価値であることは同じではない。
地方の不採算路線には、それで病院へ通う老人がいる。
古い設備にも、更新投資を回収できない事情がある。
実業は、Excelのセルを一つ変えれば翌朝から世界が変わるようにはできていない。
物理世界には、摩擦がある。
人がいる。
地域がある。
歴史がある。
そして、時間がかかる。
Ⅳ|私は「会社が商品になる瞬間」を見た
若い頃、私はある実業の会社で営業を学んだ。
売る。
届ける。
施工する。
回収する。
洗う。
また届ける。
不具合が起きれば行く。
怒られれば謝る。
契約が取れなければ、翌月の数字は増えない。
派手さなど何もなかった。
だが、自分たちが止まれば困る人がいた。
私はそこで、
実業とは、逃げられないことなのだ。
と教えられたように思う。
その会社にも、次の時代を担うと皆が思っていた人間がいた。
現場で信用を積み上げ、若い世代を束ね、稼ぎ頭として会社を率いていた。
私と同じ世代だった。
いつか世代が交代し、彼らが新しい会社をつくっていく。
私は、そう思っていた。
ところが、その世代交代は来なかった。
会社は、大きな資本の中へ入ることになった。
しかも、追い詰められた会社では全くなかった。
当時の公開数字を見る限り、純資産は約58億円、総資産は約63億円。
自己資本比率は9割を超える水準だった。
だからこそ、私は切なかった。
あのとき初めて知ったのだ。
会社には、ある日突然、
「次の世代へ渡されるもの」から
「値段のつく商品」へ変わる瞬間がある。
もちろん、M&Aが悪いのではない。
会社を残すために売ることもある。
社員を守るため、大きな資本へ入ることもある。
それでも、私の中には今も問いが残っている。
会社は、本当に株主だけが作ったものなのだろうか。
そしてもう一つ。
「次は自分たちがこの会社を背負う」
そう思っている人間の意欲や覚悟もまた、会社の資産ではないのか。
土地や株式なら買い戻せる。
しかし、一度断ち切った時間は、金では買い戻せない。
Ⅴ|改革とは「正しいことを言う」ことではない
今回の記事を読みながら、もう一つ引っかかったことがある。
今回のアクティビストは、もともと金融畑だけを歩いてきた人物ではない。
祖業である実業会社の経営に入り、上場を進め、古い商習慣や組織を変えようとした当事者でもあった。
しかし、その改革は古参社員らとの摩擦にも直面したという。
それが理由で彼は祖業を離れ、上場で得た資本を元手に投資家・アクティビストへ転じ、今度は外側から別の地方企業へ「変われ」と迫っている。
私は、そこにどうしても引っかかる。
古参社員が抵抗する。
古い商習慣が残っている。
合理化が進まない。
そんなことは、古い会社なら珍しくもない。
むしろ、
その摩擦を抱えたまま、一人ずつ説得し、一つずつ仕組みを変え、昨日までの会社を明日の会社へ連れていく。
それが実業ではないのか。
改革とは、正しいことを思いつくことではない。
綺麗な資料を作ることでもない。
正しいと思うことを、現実の人間社会の中で実装し続けること。
反対する人がいる。
しがらみがある。
過去の成功体験がある。
「今までこれでやってきた」という声がある。
それでも逃げずに変える。
そこまでやって初めて、改革になる。
だから私は、自らの祖業ではその摩擦の只中を離れた人間が、今度は資本を手に、外側から他人の会社へ「変われ」と迫る構図に、どうしても割り切れないものを感じる。
もちろん、それぞれの決断には本人にしか分からない事情がある。
だから「逃げた」と断定するつもりはない。
しかし、私にはどうしても、
実業の摩擦から降りたようにも見える人間が、資本の側へ回った途端、他人の実業の非効率を裁き始める。
そんな非対称性が見えてしまう。
そして実業を一度、
「換金可能な価値」
として見るようになると、会社の見え方そのものまで変わるのではないか。
土地。
ブランド。
持ち合い株。
含み益。
低いPBR。
眠っている資産。
すべてが、
「まだ値段を付け替えられるもの」
に見え始める。
会社の向こう側にいる人間より先に、数字の歪みが目に入る。
世界中の会社が、獲物に見え始める。
私が覚えた悪寒の正体は、たぶんそこにある。
Ⅵ|資本はやり直せる。実業には戻らないものがある
投資と実業には、決定的な違いがある。
可逆性だ。
投資なら、判断を間違えれば
売れる。
損切りできる。
ポートフォリオを組み替えられる。
次の案件へ行ける。
しかし、実業は違う。
一度廃止した路線は、簡単には戻らない。
一度切った熟練工は、翌月また雇えば元通りとはならない。
工場を閉めれば、人が去る。
技術が去る。
仕入先も去る。
一度失った地域の信用も、プレゼン資料一枚では戻ってこない。
彼らのExcelでは「▲100」かもしれない。
こちらの世界では、それが「二度と戻らない時間」であることがある。
「不採算部門から撤退」
「人的資本を再配置」
「資産を効率化」
紙の上では数行で終わる。
しかし現場では、誰かが最後の鍵を閉める。
何十年も通った顧客へ頭を下げる。
長く働いた人へ、
「ここまでです」
と伝える。
言葉は可逆でも、現実は不可逆である。
この落差を知らない経営論を、私は簡単には信じられない。
Ⅶ|資本には翼がある。実業には根がある
資本には翼がある。
より高い収益を求めて、世界中を移動できる。
株式から不動産へ。
不動産からAIへ。
今日ここにあった金が、明日は地球の反対側へ行ける。
それが資本の強さだ。
だが――
実業には根がある。
工場がある。
店舗がある。
道路がある。
顧客がいる。
社員の家族がいる。
地域の記憶がある。
簡単には動けない。
だから弱い。
しかし、
だからこそ価値がある。
資本には翼がある。
実業には根がある。
本来なら、翼が運んできた資本が根に水を与えればいい。
設備を更新する。
人を育てる。
技術を継承する。
新しい事業を始める。
そうやって実業を次の世代へ渡す。
私は、そんな資本主義なら大歓迎だ。
問題は、
翼が、根を引き抜き始めるときである。
Ⅷ|「正義」の顔をした資本ほど怖い
昔の強欲は分かりやすかった。
儲けたい。
奪いたい。
支配したい。
だから警戒できた。
現代の資本は、もっと洗練されている。
企業価値向上。
選択と集中。
ガバナンス改革。
人的資本最適化。
株主価値の最大化。
全部、正しい。
だからこそ怖い。
悪意より怖いものがある。
善意と正義で完全武装した合理性だ。
そこから実業の体温が失われたとき、誰も自分を悪人だと思わないまま、現場を切り刻むことができる。
「撤退すればいい」
「人員を最適化すればいい」
本当に危機の現場に立った人間は、そんな言葉を簡単には口にできない。
その向こう側に、具体的な顔が浮かぶからだ。
給料は払えるのか。
仕入先はどうなる。
社員の家族は。
顧客は。
保証人は。
明日の朝、会社の扉を開けられるのか。
実業には、死の臭いがある。
私が反吐を覚えるのは、その臭いがまったくしないまま、実業を解体できると思っている言葉の軽さなのだと思う。
Ⅸ|会社は「小さな共同作品」である
会社は、創業者だけの作品ではない。
経営者だけのものでもない。
もちろん法的には株主のものだ。
だが、
所有できることと、すべてを自分だけで作ったことは同じではない。
営業マンが一件ずつ顧客を増やした。
現場が一工程ずつ改善した。
事務員が一円ずつ管理した。
仕入先が無理を聞いてくれた。
銀行が苦しいときに資金をつないだ。
社員が辞めずに残った。
顧客が何十年も代金を払い続けてくれた。
先代がいて、後輩がいて、家族がいて、地域があって、何十年という時間が流れた。
その全部が積み重なり、最後に、
「企業価値」
という数字になる。
ところが資本の世界では、ときに順番が逆転する。
企業価値という数字が本体になり、
その数字を作った人間たちが付属物になる。
私は、そこがどうしても嫌なのである。
会社とは、
社会の中につくられた、小さな共同作品だ。
だからこそ、誰か一人の獲物ではない。
終章|会社を百倍にするより、百年残す
私は世界的な投資家にはなれない。
何兆円もの企業価値をつくることもないだろう。
会社を百倍にする経営者にも、たぶんなれない。
それでいい。
今日、一件仕事を取る。
一件届ける。
一台直す。
一人のお客さんの困りごとを解決する。
給料を払う。
仕入先へ払う。
税金を払う。
借金を返す。
設備を直す。
そして、社員と頭を寄せる。
明日も会社を開ける。
派手ではない。
だが、誰かがやらなければ社会は一日たりとも動かない。
私はこれからも金融を学ぶ。
投資も学ぶ。
AIも使う。
資本の論理も理解する。
そのうえで、
実業を食う者には、実業の側から異議を唱える。
資本は敵ではない。
だが、会社も獲物ではない。
資本には、やり直せる世界がある。
実業には、二度と戻らないものがある。
一度失われた技術。
一度切れた信用。
一度消えた路線。
一度去った人間。
一度終わった会社。
だから私は、天才になれなくてもいい。
三人寄れば文殊の知恵。
凡人が頭を寄せ、一つずつ間違いを止める。
今日を潰さず、明日へ渡す。
また一年渡す。
そして、次の世代へ渡す。
それでいい。
いや、
それがいい。
会社を百倍にするより、百年残す。
百倍という数字は、資本の記憶に残る。
百年という時間は、地域の記憶に残る。
私はたぶん、
最後まで、
そちら側の人間でいたい。
#社会にメスを #実業 #資本主義 #経営 #投資 #事業再生 #M &A #アクティビスト #企業価値 #ガバナンス #PBR #事業承継 #地方企業 #中小企業 #地域経済 #地方創生 #経営者の覚悟 #会社とは何か #資本と実業
#RealEconomy #Capitalism #Investment #BusinessPhilosophy #CorporateGovernance #LocalBusiness
