短編小説『美容院迷子の女』
新しい美容院というのはどうしてこうも気が重いのだろうか。
どんなスタイリストさんに当たるのかわからない不安と、その人との世間話まで考えてしまうと……とにかくダルいのだ。
過去にはそういったお店に当たることもしばしば、一回限りで行くのを止めてしまったお店もあった。どちらかと言えば、ゆっくりと静かに過ごしたいほうの私。
……さて、今日はどうなることか、とスマホに届いた住所を頼りに向かった新しい美容院のドアを、グッと開いた。
「いらっしゃいませ」
店内は驚くほど明るくて、広かった。白を基調とした清潔な空間に、柔らかな自然光が差し込み、壁一面の大きな鏡がさらに部屋を広く見せている。BGMもうるさく感じるほどではなく、ちょうど良かった。
「ええとご予約されていた……嶋田さまですね」
タブレットを確認しながらカウンターから出てきたのは、短い茶髪をきっちり整えたシュッとした若い男性のスタイリストさんだった。二十代後半くらいだろうか。白いシャツに黒のスリムなエプロン姿で、動きに無駄がない。私が頷くと目がすっと細くなり、穏やかな笑みを浮かべた。
「今回、嶋田さまの担当をさせていただく小野と申します。本日はカットと白髪染めでしたよね。ではこちらへどうぞ」
彼は余計な挨拶を一切しなかった。案内された席に着くと、すぐにケープをかけ、首回りを丁寧に整えてくれた。鏡に映るのは、明るい店内とはかけ離れた、疲れた表情の私。
もう少し良い顔、できないだろうか。あまりのひどさに自身にそう問いかけていた。
「まずはカットから進めますね。今日はどんな感じにされますか?」
彼の声は低く落ち着いていた。私は鏡越しに自分の希望を伝えた——前髪を少し長めに残して、全体は軽やかにしてもらって、首元はすっきりで……
彼は真剣に聞きながら、何度か質問を挟んでくれた。
「そうですね、ここを少し短くすると毛先に動きが出ますが、いかがでしょう? あと、重さを残したい部分とかありますか?」
こちらの要望を丁寧にすり合わせてくれ、提案も的確だった。なおかつ押しつけがましくなく、鏡を使って的確にイメージを共有してくれる。
「じゃあ、そういう感じでお願いします」私はそこで安心した。
さっそくカットが始まった。彼は黙々と作業を進めた。ハサミの軽やかな音、梳かす音だけが規則正しく響く。何度も鏡を見ながらバランスを確認しつつ、指の動きは確かで、一切の無駄がない。
そして時折、必要な確認を最小限に、穏やかな声で話しかけてくれる。「ここ、こうなりますが大丈夫ですか?」
「え?あ、はい、それでいいです」
短いやり取りだけで、また静かになる。私はその適度な間合いが、とても心地よかった。完全に無言ではないけれど、世間話を一切せず、作業に必要なことだけ。
カットが終わる頃には、鏡に映る自分の髪が予想以上に軽やかになって整っていた。顔の輪郭もすっきりし、あれほど疲れた印象の表情が、いつの間にか少し和らいでいた。
「すごい……カット、ありがとうございます。とても気に入りました」
鏡越しにそう話すと、彼は小さく微笑んで頷いた。
「ご希望に添えられてよかったです。では、次に白髪染めを進めますね」
染め作業に移ると、彼は薬剤を丁寧に混ぜ、根元から刷毛で静かに何度も塗り込んでいった。染料の香りがふわりと広がる中、彼が静かに言った。
「染まるまで少しお待ちいただきますので、こちらどうぞ」
トレイに載せて出してくれたのは、キリッと冷えたアイスコーヒーだった。グラスに薄く霜がつき、ストローが添えられている。ブラック、シンプルでちょうどいい苦味。私はそれをゆっくり飲みながら、染め上がりを待った。冷たさが心地よく、胸の内で自然と思っていた。
——当たりだ。
あれだけ不安だった新しい美容院が、こんなに居心地がいいなんて。きちんと要望を聞いてくれて、黙々と丁寧に切ってくれて、適度な言葉で寄り添ってくれる。
……うん、このスタイリストさんならまた来たい。
染めが完了した後、彼は優しく声を掛けた。
「では、染めを流しますね。シャンプー台へどうぞ」
シャンプー台に移動し、椅子を倒して横になると、彼は丁寧に私の頭を両手で持ち上げて支えてくれた。ぬるめのシャワーが染料を優しく洗い流していく。指先が頭皮を丁寧にマッサージしながら、残った薬剤を根元から綺麗に落としていく。
頭の重みを預けている安心感と、温かいお湯の心地よさが混ざり合って、思わず深い息が漏れた。頭を持ち上げて洗ってもらうこの時間も、静かでとても心地よかった。
その後、席に戻り、最後に軽くブローとワックスで仕上げてくれた。
「いかがでしょうか」
彼は鏡をゆっくりと回してくれた。白髪も自然に染まり、カットで軽くなった流れのある髪型は「そう、こうしたかったの!」と言いたくなるほど最高の仕上がりだった。
「お疲れ様でした。またいらしてください」
会計を済ませると、入り口まで見送ってくれた。
外に出ると、いつもの街の喧騒が戻ってきた。でもどこか足取りが軽かった。髪だけでなく、心まで整えられた気がした。
スマホを取り出し、スケジュールアプリを開く。
来月のところに、シンプルに「美容院」と記入した。ふとサイトの予約画面を見ると、スタイリストさんの指名ができることに気づいた。私はまた、彼にお願いするだろう。
そして美容院迷子の憂鬱が、ひとつなくなったことが嬉しかった。私は新しい髪型をゆるやかになびかせて、駅に向かった——
