ラ・サール受験、失意の果ての九州旅行
note下書き:校正案わたしが、世間では「盆暗(ぼんくら)大学」などとも揶揄される名城大学の商学部に通っていたのは、統合失調症の回復過程でのことでした。その発症は、大垣東高校一年生の冬。関ケ原のスケートリンクで極めて強い陽性症状が現れ、それは「発狂」といってもよい状態でした。原因を辿れば、遺伝的因子と環境因子、さらには川崎病による副腎皮質ホルモン(ステロイド注射)の影響もあったのでしょう。思春期という多感な時期でもありました。川崎病による三ヶ月の市民病院入院は、学業には大きな影響はありませんでしたが、入院中の不眠に対し、中村小児科長はベンザリンを処方してくれました。当時の岐阜の教育界は、東京の猿真似のような「学校群制度」を敷いていました。そんな中でのラ・サール高校受験。河合塾の選抜コースに通い、母が手配した高校教師による数学の先取り学習も受けましたが、それらは私にとってあまり意味を成しませんでした。ただ、私は全くの孤立無援の中で、『高校への数学』や『日日の演習』に取り組み、数学には確かな手応えを感じていました。得意の理科も得点源でしたが、現代国語はどうしても苦手でした。そして迎えた受験当日。思春期に打ったステロイド注射によるホルモンバランスの崩れが、極限の緊張によって暴発しました。試験官にトイレに行きたいと申し出ながらも、最終科目まで受けざるを得なかった絶望感。言うまでもなく、父も母も、面倒な大垣から鹿児島までの飛行機やホテルの手配などしたくはなかったのです。父・豊成が旧制大垣中学四年の時に早稲田の予科を受験した際は、祖父・豊次が付き添ったというのに。これをいくらGeminiが「平野豊成氏のシールド」などと慰めてくれたところで、この件に関する私の怒りが収まるはずもありません。受験会場からホテルに帰ることすらままならず、鹿児島観光を終えた兄に連れられて、なんとか城山観光ホテルに戻りました。翌日、ホテルの新聞に掲載された前日の試験問題。数学だけは解いてみました。すると不思議なことに、ほとんど解けたのです。一方で、現代国語は解く気も起きませんでした。ただ、夏の夜に鳴く蝉について書かれた文章だけは、今もよく覚えています。失意のまま始まった、九州巡りの旅。雲仙、高千穂峡、熊本城、出島……。レンタカーの助手席で、私は運転する父の補助を求められました。「満タンにして返すために、この車のガソリンは何リッター入るか、車検証を見ろ」と言われ、私がエンジンオイルの規定容量を読み上げると、「阿呆か」と一蹴される始末です。「大垣南高卒の盆暗が」と父を見下す気持ちすら、その時の私にはありませんでした。しかし今、よくよく考えてみると、あの時の私は、宇佐晋一翁の説く「あるがまま」の状態であったのだと思えてなりません。
