ほんとうに必要なものだけを胸に | 『惑星』 片山令子
わたしは生まれたばかりの頃の記憶がある。
赤ちゃんのわたしは寝ていたのだろうか。
おそらく、家族の馴染みの店の一角にある畳の部屋にひとり、天井の格子を見ながら静かに、確かめるように、わたしの意識は家族の笑い声と、犬の鳴き声を聞いている。
上書きされたものなのか、本当の記憶なのか、今となっては確かめようもないのだけれど、折にふれ、わたしの人生の中の一番古い記憶として思い出す。
本書、片山令子さん著の『惑星』は、なぜだかそんな、こどもの頃の記憶を呼び醒ますとともに、自分が宇宙の欠片のひと粒なのではないかというロマンチックな気分にさせてくれるエッセイと詩でできている。
そして片山令子さんのやわらかなことばから、生きることを愛でる喜びを、残り香のようにそっと知るのだ。
何よりわたしがそれらを必要とするとき、すぐに手繰り寄せられるよう、ここに記しておきたいことばたち。
たとえば、美しさについて。
「エリザベス」というイギリスの映画を見た。まず驚かされたのはその服装の美しさだった。人間を包むことについての、この美意識と執着は、いったいどこからくるのだろう。
(中略)
ケルト文様の研究者がいっていた。古代の人は、人の命のはかなさを身にしみて知っていた。だからやがて還る土に永遠に咲く草や花の形で身体を包み、一度しかない生をあのように飾ったのだと。
花のような服
あるいは、しあわせとはこういうことではないか、と思わせてくれる視点。
昔、ひとにそら豆に似ていると言われた。やがて知らないままにそのひとと住むようになり、今もそうしている。
いちおうなんとか世の荒波に浮かぶ莢、ふたのしまる床と屋根があり、その中には相当よいことと、相当ひどいことがいっしょにあり、夜はそら豆が四つ眠り、朝になるとあっちこっちにはじけ、莢は空っぽになる。
豆の花 豆の莢
そしてあるときは哲学者のようでもある。
畑の野菜売り場でよく、一束二百円の花束を買う。円錐形のセロファンの中に、ぎっしり花がつまっているので全体が見えない。勘で「これ」、と選んで買ってくる。当然いまひとつ、という好みから遠い花も混ざっている、なにしろ、野菜畑の飾りとして植わっていた、丈夫が第一の花々なのだから。
(中略)
「ひとつ好きな花があれば、あとはまあいいかと思って買ってくるのね。組み合わせ方をいろいろ変えたり、分けたりしてると、うまい具合になるの。でも、どうしてもだめな花があるのね。それは一日飾って謝って捨てるのよ。全て選べないっていうところが、なんだか人生みたいだな、と思って」
人生のような花束
そしてまた、色や形と呼吸との関係についてはこのように。
ひとは色彩と形を呼吸している。でもそのことに気づかない。まわりの物との調和などはなから考えない、目立てばいいという看板。作っておけばいいだろうという手摺や窓枠。色や形の混乱は、こころを荒廃させることをみな、あまり知らない。知らないまま、どんどん呼吸を浅くしている。
マチスやゴッホが来ると美術館をぐるぐる巻きにするほどひとが集まるが、そこに集まるひとが着ている服のプリントが、信じられないくらいにひどい配色をしていたりする。絵の中の色彩の美しさを、身にまとう服のプリント選びに使おうとしない。生きている自分とは何のつながりもないのだ。
ささめやさんのパールグレー
涙が流れてしまうときのたとえとして、今まで見聞きした中で一番優しいことば。
なつかしさの水の粒が足の先から昇ってきて涙の管の中をくぐって、眼のまるみまで届きます。
いっしょに歌う歌
またあるいは、英語の歌詞の訳し方ひとつで、こんなにも受け取る印象が変わる、というすごい例。
それは、ボブ・ディランの「哀しい別れ」なのだけれど、「結び目をつくるすべての考え」だなんて表現!
どうやって思いつくんだろう。
(数多ある「哀しい別れ」の和訳の中で一番美しい!)
「哀しい別れ」の中で、わたしの中で結び目をつくるすべての考え、と歌っている。それがわき出なかったら、気が変になっていただろうと。
考えて考えてやっとわかったことが
霜で覆われた植物のように
きらきらひかりだす。
それが、あの歌になるのだ。
風に吹かれて
片山令子さんのまわりには、道端に自生する季節の花や植物のように音楽もまた、人生の彩りとして常にあったようだ。
昨日という鍵盤にも明日という鍵盤にも触れずに、今日という鍵盤をたたく練習をすること。そうしないと、人生を音楽にすることはできない。
バッハ「パルティータ第二番」
そして、何かを愛する、ということに、ルールはないのだと気づかせてくれる。
華やかな音楽会には行けなくても、楽器など弾けなくても、音楽をほんとうに必要とし、愛している人々をわたしは見てきた。
店の奥の暗がりで回転しているレコードの光は、湧き出てくる泉のように見えた。リパッティのレコードが砂漠になってしまったのは、あの「ショパンの人」のこころの中にワルツの泉が引っ越していってしまったからなのかもしれない。
リパッティのワルツの泉
豊かさ、とは、いったい何だろう。
そのひとつの鍵はおそらく、自分にとってほんとうに必要なものとそうでないものがちゃんとわかっている、ということではないだろうか。
誰かと比べるものでもなく。
誰かにほめたたえてもらうものでもなく。
代わりのきかない、自分にとってはそれじゃなきゃだめなもの。
宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の中で「ほんとうのさいわい」を探し続けたように、ひとは生きている間、それを探し続けることから逃れられないのかもしれない。
機械がむき出しになっている小さい手廻しのオルゴールを買った。
(中略)
音は小さく、みすぼらしく響かない。が、金属のふるえが小さく長く聴こえる。何かに置いた時には聴きとれなかったデリケートなオルゴールの心臓の音だ。
裸のオルゴール
心臓の音というのは不思議だ。
ドクンドクンという鼓動が耳から伝わったとき、その胸の中に隠し持っている秘密を知ってしまった共犯者のような気持ちになる。
そして美しい詩。
いつもどこかで何かがおこり、胸にしみることがおこり、
胸はその出来事のかたちに透けてしまう。
いつもどこかで誰かに出逢い、誰かは胸にしみてしまい、
胸はそのひとのかたちに透けてしまう。
あさに誘われておきあがり、顔をあらい、こうして何日も何日も歩いた。胸にしみるものを捜して。
次の日も次の日もおきてはでかけて、いつもどこかで何かがおこり、かがやくような出来事や、かがやくような誰かに逢って、胸はどんどん透けていった。
胸がすっかり透けてしまったひとはおきあがらない。もう歩いていくこともなくなって、よく晴れた日の真っ白い雲のようにきえていく。胸にしみるもの、そのものになって。
憧れていたもの、そのものになって。
だか憧れはのこり、そこからまた白い雲はわきあがる。あたらしい雲はそらのはしからあらわれて、空のまんなかにのぼっていく。
眼にしみる青空。まばたきをするたびに、しゅうっと胸にしみてくる。炭酸の泡がはじけるように、少しいたい。
あたらしい雲
今日の空は、まさに眼にしみるような青色をしている。
そんなにも潔く青い色を見せつけられると時々、自分の手にあまることがある。
そんなときのための、処方箋。
〈落ちこんだとき〉
あたらしいわたしには、あたらしい落胆があるので、その度に処方箋を変えます。柔らかいものに包まれて眠る。頭から足まで触る。いつもの珈琲をウインナ珈琲にする。甘さやおいしさだけを、感じるようにする。まわりを磨く。文字に書きだす。詩は、薬です。口を三日月型にして、目を閉じれはすぐ行ける、こころのレストランに行く。
クーヨンの質問にこたえて
『月刊クーヨン』誌(クレヨンハウス刊)でアンケートにこたえる形で書かれた。
本書は、片山令子さんの "好き" をたっぷりと閉じ込めた宝箱のような本なのだ。
その本書の完成を見ることなく、2018年、彼女は逝ってしまったのだという。
(2019年11月1日 初版第一刷発行)
著者、片山令子氏は、本書を制作するなかば体調を崩されながらも、編集に細やかな心を預けてくださいました。誠に残念でしたが、完成を待たず昨年三月に亡くなられました。謹んで哀悼の意を表します。
片山健氏、ご家族のご協力をいただいて、本書を上梓することができました。心より感謝申し上げます。
本書の巻末には、在りし日の片山令子さんと、共に写るご家族の写真がいくつか掲載されている。
そのどれもがおだやかで、美しい。
好きなページを読んでは、写真の中の彼女を見る、をくり返す。
きっと片山令子さんは、胸にしみるもの、憧れていたもの、そのものになって、白い雲として空からわたしたちを眺めて微笑んでいるのではないかと見上げた今日の空の青は、眩しかった。
わたしもいつか透明になる頃には、ほんとうに必要なものだけを、そっと、胸に染み込ませていられますように。
古い写真。まっすぐ前を見ている男の子か女の子かわからない生まれたばかりのわたし。産毛をきれいにそられて、くりくりの頭をしている。
子供時代のことは時々人から聞いたが意外に生まれて間もない頃のことはあまり聞いていなかった。つい最近それを聞いた。
(中略)
本来持っているわたしの質、原形は、もしかしたらこんな乾いた感じなのかもしれないと思い、聞いたその日から、あたらしいわたしがはじめからやり直しされる感じがした。
だんだん原形にもどっていくような気がしたのだ。
(中略)
こんがらがってしまったら落ちついて思い出そう。静かな、天体としてのわたしを。
惑星
片山令子『惑星』港の人(2019)
