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食事の記憶PART2 - 8 同級生のお宅の焼き鳥屋台

    昭和時代末期である、1980年代後半に起こった「脱サラブーム」は、当時、バブル経済前夜の好景気に湧き、金融機関から借り入れをし易くなったことに始まる。

    一般人にも、銀行が貸し付けを促したから、その元手で新しい仕事を始め、これまでにはあまり考えられていなかった「自分らしさ」を追求する人々が増加したことにスタートしたとされる。

    「会社組織からの解放」や「独立への憧れ」という感覚も、同時に民間へ深く浸透していったのである。
    (以上、AI検索を参照)

    ちょうどそんな折、友人のお父様も、某有名、大文具メーカーを脱サラした。

    そして、焼き鳥屋に転身したのである。

    白いワンボックスカーを改造した、キッチンカーで販売し、中学校の近くにあった公園で営業し始めたから、部活帰りに1本70円だった焼き鳥を、皆と一緒によく買い食いしたものだ。

    ちょうど時同じく、1986年、母が初めて救急搬送され、入院を余儀なくされた。

    それ以前から、よく寝込んでいたが、この年を境に、より一層、家事をできない日が増した。

    それで私は、中学1年生の終わり頃から、炊事・洗濯・掃除を、学業と共にかなりこなさねばならない状態へと、転換したのだった。

    父親は、食事にうるさく、
    「こんなもん、食えるか」
と、私は怒鳴られることが、日常茶飯事だった。

    母は、食卓が見える隣の部屋で寝ていたが、
    「ちゃんと家事が、できるようにならなアカン。
    女の子なんやから、完璧にできなアカン。
    桜は、どんくさい。
    そんなことでは、お嫁に行かれへんで。
    女は勉強より家庭のことができやんと、生きてる価値がない」
と言い、庇ってはくれなかった。

    何しろ、昭和時代の村中が「世間」という世界観を持つ母の言である。

    だからといって、頑張ってどうにかなるものではない。

    私が母と同じ腕を持つにも、生きている年数が20年若いのだから。

    それで、出来合いのお惣菜を好まない父親だったが、母でも手作りしない物であれば、買ってきて、皿に盛り付けても文句は言われまいと、防御線を張ることにした。

    そこで、この友人のお父様が販売されていた「焼き鳥」に目をつけたのである。

    「焼き鳥」なら、父親の酒の肴にも、弟のご飯のお供にもなる。

    しかも母が、わざわざ串うちをして「焼き鳥」を作ることはない。

    それに、この「焼き鳥」は美味しかった。

    だから母が寝込むたびに、私はキッチンカーに行き、
    「おっちゃん、串20本お願いします」
と、毎回、買い求めたのである。

    友人のお父様とは小学生時分から面識があったから、気軽に買い物へ行き「焼き鳥」を焼いてもらう間も、色々と会話を交わすことができた。

     その内、
     「お母ちゃん、寝込んでんか」
と言って、心配して下さると、
     「弟と1本ずつ、ようけ食べな」
と、2本オマケしてくれるようになった。

     私が高校生の時まで、この商売を続けていらしたから、学業との両立に於いて大変お世話になり、助けて頂いた「夕飯のおかず」だったのである。