きんてき護身術〈1〉
ユキが…妹が、海外旅行に行くと言い出した。
しかも1人で行くと言う。
20歳になったとは言えこのとろい妹が1人で海外など行けるはずがない。
きっとすぐ迷子になる。そして悪い人たちに連れ去られ…考えたくもない。
父も母も彼女の挑戦を褒め応援している。
俺は猛反対だ。可愛い妹が心配だ。
父には「お前は心配しすぎた。ユキはもう大人だぞ」と言われた。
分かってる。ユキはもう大人だ。
それでも背中を押してはやれない。
俺は毎日ユキの気が変わるよう脅す。
「ひったくりに遭うぞ!」
「誘拐されるんじゃないか?」
「身ぐるみ剥がされるかもな」
ユキには全く効果がない。この鈍感さが心配なのだ。
「そんなに心配なら今から空手とか習おっかなー!」
人の心配をよそに、アチョー!と奇妙なポーズを見せる。
…その一言で閃いた。
「ユキお前、海外旅行行くならその前に護身術習えよ」
「護身術?」
「ああ、護身術習わないなら行っちゃダメだ」
「お兄ちゃん…」
妹のために護身術教室を探す。
夜間帯はダメだ。先生は女である必要がある。妹でも使える技をできるだけ短期間で習得できそうなところ。条件は多い。
それでもなんとか見つけることができた。
丸一日を要した。
ユキにスマホの画面を向ける。
「ユキ!ここ行こう!」
「もおー!分かったよー!」
「これで兄ちゃんも少し安心して送り出せる」
「護身術ってなにすんの?こわいかも」
「大丈夫!優しそうな先生のとこ選んだから!お前みたいに細くて鈍くても簡単に悪者を倒せるらしいぞ!」
「悪者…」
「じゃ、申し込むぞ!」
「待って!!!私1人で行くの?」
妹の呆れた顔が焦りの色に変わった。
「…そうだな?俺には必要ないだろ」
「えーやだー!」
「なんでだよ」
こんなやつが1人で海外なんていけるはずない。
「お兄ちゃんもきて?お兄ちゃんと一緒がいい」
可愛い。俺は妹が可愛くてたまらない。
「分かった分かった。じゃあ2人で申し込もう。護身術ビギナーコース…っと」
土曜日、昼食を食べて家を出る。
昨日の夜から妹は口数が少なかった。妹の緊張に気づいてないふりをして歩く。
こんなんで海外なんて行けるのか。
『護身術教室』と窓に貼られたビルが視界に入る。2階や3階には美容室や音楽教室が入っているらしい。俺たちは1階の教室に入る。強張った顔の妹を見るといつのまにか速度を上げていた鼓動が落ち着く。
黒いジャージを着た受付の女性が出迎えてくれた。受付を済ます間、妹は後ろでキョロキョロ周りを見回している。
案内された部屋では着た細い女性が出迎えてくれた。20代半ばくらいだろうか。彼女も受付の女と同様に黒いジャージに身を包んでいる。
「こんにちは!このクラスを担当させていただきます藤原と言います!」
ハキハキと喋る姿勢の良い女性だ。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
美人を前に少し緊張した俺を見透かしたように妹がイタズラっぽい視線を送ってくる。
「今日はあと3人来ることになってるので来るまで待ちましょ」
教室の隅にあるテーブルに手のひらを向ける。
飲み物を置き、部屋を見回す。
白い床に白い壁、正方形に近いこの部屋は一面だけ鏡で作られている。
部屋の隅っこにテーブルが1つ、イスが3つ、そして観葉植物が1つ置いてあるだけだ。
「お二人は護身術を習おうと思ったきっかけとかあるんですか?」
藤原が少し首を傾げながら人懐こい笑みを浮かべる。
「それは…」
俺の話を妹が遮る。
「聞いてくださいよー!お兄ちゃんほんっと過保護で!私が海外行きたいって言ったら護身術学んでからじゃないと行かせないーなんて言うんです!藤原さんどう思いますか?」
妹が表情豊かに訴える。
「ふふ、仲良いんですね!やっぱり妹さんが心配なんですか?」
藤原が再び俺を見る。
「いや、まぁ…こいつ見ての通りとろいし、体も小さくて、いざって時に動けないと思うんで」
「優しいお兄さんですね!羨ましい!」
彼女は少し揶揄うような顔で言った。
恥ずかしくなり聞き返す。
「藤原さんはご兄弟いないんですか?」
「いますよ!私も兄が!でもこんな心配してくれません!!!」
ぷくっと頬を膨らませる。
「はははは!藤原さんは護身術教えてる側だから!」
「私だって心配されたーい!!!」
顎の下で両拳を揺らす。彼女のぶりっ子ポーズは不慣れで可笑しい。
「あはははははは!!!」
妹の緊張は完全に解けたようだ。
藤原が話を続ける。
「私の兄なんて心配どころか、よく取っ組み合いのケンカしてましたよ!」
「え!」
活発な少女だった彼女を想像する。
「お二人はケンカなんてしないですか?」
「手を出すようなケンカはしないよね?」
妹が俺を見上げる。
「そうだな」
「えー子供の頃から?」
藤原が驚いた声を出す。
「そうですね…ペチペチ叩き合うくらいはあったかも」
「えー!信じられない!」
なんてやんちゃな兄妹だったのか。
「取っ組み合いなんてしてお兄ちゃんに勝てるわけないもん!ボコボコにされちゃう!」
首を横に振って妹が笑う。
「だな!」
細くなった妹の目を見る。
笑い合う兄妹を見て藤原が口を開く。
「でもお兄さんは男性で妹さんは女性ですよね?」
「…ん?」
妹の頭上に?が浮かんでいる。きっと俺の頭上にも。
ふふ、藤原の口元が緩む。
「今日のレッスン終わる頃には妹さんがお兄さんをボコボコにできちゃうかも」
藤原の冗談に「お!期待してます!」と返す。
「お兄ちゃんのことボコボコにできたらもう海外くらい1人で行かせてもらえるね!」
そんな話をしていると残りの参加者3人が続けて入ってきた。
藤原の顔が少し引き締まる。その隣で妹の顔を引き締まっていた。
「みなさんこんにちは!護身術ビギナーコースにご参加ありがとうございます!担当の藤原と申します。よろしくお願いします!」
彼女がニコッと笑うと参加者達から拍手が起こった。なかなか和やかな雰囲気だ。
だが、俺は少し居心地が悪い。講師の藤原をはじめ参加者も全員女性だからだ。
5人の女性の中で自分だけが男性というのは少しきまりが悪い。
藤原の挨拶は続く。
「このクラスでは格闘技や護身術を学んだことがない方々を対象に身の守り方をお伝えしていきます。ゆっくり教えていくので安心してくださいね!分からないことがあったらなんでも聞いてください!
まずは、みなさんのことを知りたいので軽く自己紹介をお願いします!お二人からいいですか?」
藤原の体が俺たちの方を向く。
しょうがない。先陣を切るか。
「えー、こんにちは!ヒロキと申します。よろしくお願いします!」
自己紹介は少しつまらないくらいがちょうど良い。
さあ、妹の番だ。こっちがハラハラする。
「こんにちは!ユキです!この人、私の兄です!よろしくお願いします!」
俺のほうに少し顔を向けながら挨拶する。
そして次は妹の隣の女性が挨拶をする。幅広めなグレーのスウェットパンツにタイトな黒いTシャツを着てる。
黒いロングボブの外ハネが可愛い。30歳くらいだろうか。
「こんにちは!ハルです!よろしくお願いします!」
姿勢良く胸を張って喋るので丸い胸の形がくっきり表れてありがたい。
残りの2人は友人らしい。ユキと同い年くらいに見える。
先に口を開いたのは金髪ポニーテールのほうだ。
グレーの短パンとパーカーはセットアップか。
「こんにちは!友達と来ました!ミユです。
よろしくお願いします!」
大きな声だ。
続いてもう1人のほうも話し始める。
黒いジャージのチャックをしっかりと上まで閉めている。
ギャルっぽいミユとは対照的だ。短めの黒髪が俯いて喋る彼女の目を隠している。
「ミライです…よろしくお願いします」
小さい声で言い顔を上げる。ようやく目が見えた。
「はい!ありがとうございました!
みなさんよろしくお願いします!」
藤原が手を叩いて締める。
「みなさん色んな理由で参加してくれたと思うんですが、まず『護身術とはなにか』から説明していきたいと思います。
護身術とは、悪い人から自分の身を、そして大切な人を守る技です。
力が弱くても、体が小さくても、動きが遅くても…狙う場所さえ覚えてしまえば少しの練習で小さな女の子が屈強な男性を倒せちゃいます!
護身術にルールはありません。スポーツではないのでね!悪い人に対しての攻撃で反則を取られることはありません。なんでもありです。そこに私たちの勝機があります」
藤原は女性陣4人のほうに体を向けて続ける。
「みなさんのようなか弱い女性でも簡単に男性を倒せますよ!
さあ!練習していきましょう!!!」
「暗い夜道、周りには誰もいない、逃げ込める家もない。そんな状況で歩いていると突然あなたのすぐ横に車が停まり180センチを越えるようなムキムキな大男が出てきてあなたを車の中へ連れ込もうとしてきます。あなたは肩を掴まれました。
さあ、みなさんならどうしますか?」
藤原は参加者の目を順番に見る。
「どうって…」妹が少し怯えたような顔で呟く。
「男の人に掴まれたらもう詰むよねー」
ミユが他人事のように言う。
「だよね…180越えるムキムキの大男でしょ?むりむり!」
ミライも笑いながら同調する。
「どうですか?ハルさん」
不意に名前を呼ばれたハルがさらに背筋を伸ばす。
黒いTシャツが大きな胸で引き伸ばされる。
「相手が男性なら…急所ですか?」
少し頬を赤らめながら答える。口元には笑いを含んでいる。
「そう!!!」
藤原が大きな声で嬉しそうに手を合わせる。
「相手が男性だから倒すのが難しい。ではないんです。
相手が男性だから簡単に倒せるんです!」
誇らしげな顔で言う。
「えー?」ミユが照れた顔で嬉しそうな声を出す。
「男性は急所を打てば簡単に倒れてくれるんです!」
藤原が憐れむようにニヤけている。
クスクスとした笑いが起こる。
「急所?」妹がアホみたいな声を出す。
藤原が一瞬キョトンとしてニヤリと笑う。
「男性の急所。分かんないですか?」
女性陣が一斉にニヤニヤし始める。
あ!と妹も察する。
「ふふふふ!急所かー!あれ痛そうだもんねー」
「ね…」
ミユとミライが笑う。
藤原がイタズラっぽく笑いながら続ける。
「みんな知ってたみたいですね!男性急所とはズバリどこですか?」
ハルを問い詰める。
「え!!」
思ってもない攻撃にたじろぐ。
「えっと…」
チラッと俺の股間を見る、そして目が合う。
視線はすぐに逸らされたが気まずい時間が流れる。
「ふふふ!意地悪してごめんなさい!」
と藤原が舌を出して言う。
「男性の急所は金的です。金的。伝わりますか?
股間の…タマです!きん!たま!」
藤原が照れながらもあまりにハキハキと喋るので全員があっけに取られた。
コソコソとミユとミライが話し始める。
「きんたま?」
ミユが恥ずかしそうに笑う。
「ぷっ!ちょっと!」
ミライが聞き馴染みのある親しみのないワードに吹き出す。
「まぁ男の急所と言えばソコだよね。」
「アソコ狙うのか…」
「どんくらい痛いんだろうね」
「ね!ぜんぜん想像つかないよね!」
「たまに…あ。たまにさ、ぶつけて痛がってる男子見るけど…分かんないよね〜」
「たまに…!!!ね!!よく分かんな〜い!」
「崩れ落ちてるよね、アソコ打ったら」
ミユがケラケラ笑う。
「オウオウって跳ね回る男子もいなかった?」
ミライの言葉にミユが苦しそうに笑う。
男子って可哀想と話す2人の会話を聞いて藤原が口を開く。
「男性はタマを打ったら相当痛い…んですよね?」
藤原が急に俺の方を見る。
5人の女性の視線が俺に集まる。
「ま、まぁ…」
「あら、ぶつけたことないですか?」
藤原が聞く。この女は本音で問いかけてきてるのだろうか。
こんなことを聞かれてる俺に寄せられる視線がニヤけてくる。
「ないことは…ないけど…」
「おお!あるんですね!!」
藤原が喜び「ですよね。男の子だもんね」と呟くと周囲からクスクスとした笑いが生まれた。
「ぶつけちゃった時のこと教えてくれますか?」
真剣な表情で藤原が聞いてくる。
え…そんな恥ずかしいこと言いたくない。
気持ちを見透かされたように藤原が顔を近づけてくる。
申し訳なさそうな顔で俺の顔を覗き込む。
「男性の急所って私たちには関係な…えっと…よく分からなくて!でも護身術ではとても大事なんです!
急所を打ってしまった経験…ヒロキさんしか持ってないので…
なので…貴重な経験、みなさんに聞かせてもらえませんか?」
藤原は申し訳なさそうに、ごもごもと懇願してくる。
こんなに頼まれて断れるわけがない。
「タマ持ってんのお兄ちゃんだけだしね」
妹の追い討ちもあり腹を括る。
ふぅ、と息を吐き、しょうがないと自分に言い聞かせる。
「俺、フットサルが趣味なんです」
「おお…」
藤原が謎の歓声を上げる。
「タマ打った話すんの?ダサ」
ミユが小声で嘲笑う。
すでに女性陣はニヤニヤし始めている。
彼女達には縁のない金的の話を彼女達に向けてするというのはたまらなく悔しい。
「この前、相手のシュートがココに当たっちゃって!」
できる限り愉快な顔と声で話す。
「うわー」
「かわいそー!」
ミユとミライが笑っている。
「あぁ…サッカーね」
よく見るかも、とハルも微笑んでいる。
「シュート喰らっちゃって、無事でした?」
藤原がチラッと俺の下半身を見て言う。
遠慮がちな言い方ではあるが笑いを堪えきれていない。
なんと返すべきか言葉を探す。
「やっぱり痛かったですか?」
さらに詰め寄ってきた彼女は憐れむような顔を少し赤くしていた。
「そりゃ痛かったですよー!」
必死に明るい声を出す。
「思いっきり当たっちゃったんですか?」
ふ…と笑いを堪えながら藤原が聞いてくる。
「まぁ…女子のシュートだったんでまだマシでした」
「え!女子!?」
藤原が思わず笑う。
これまで恥ずかしそうに会話を聞いていたハルも吹き出す。
「プッ!女の子が蹴ったボールが当たったの?気まずー!!」
それにつられて周りの笑い声も大きくなる。
「それ蹴った女子が可哀想ー!」
「やっちゃった感すごいよねきっと」
ミユとミライが笑ってる。
いやいや、可哀想なのは俺だろ。と思いながらあの時ボールを蹴った女子の顔を思い出す。
申し訳なさそうに恥ずかしそうに笑っていた。
確かに居心地が悪そうではあった。
「それで、どれくらい痛かったんですか?女の子のシュート」
もう堂々と笑いながら藤原が聞いてくる。
「どれくらいって…」
困っている俺にさらに問いかける。
「崩れ落ちました?ピョンピョン跳ねた?」
ミユがバカにしてくる。
「ちょっとやめなよ」
ミライが俺に謝りながら友人を落ち着かせる。
「だって男子ってそうじゃん!タマ打ったら崩れ落ちて動かなくなるかピョンピョンじゃない?」
ミユが純粋に楽しそうに笑う。彼女に悪意はなさそうだ。
「まぁしばらく…立てなかったかも」
「へー?女子が蹴ったボールで?」
ミユが優越感を含んだ笑みを向けてくる。
やっぱり彼女には悪意がありそうだ。
「しばらくってどれくらい?」
いわゆる『下ネタ』が得意じゃない妹が問いかけてくる。心配してくれたのだろうか。
「20分くらいかな」
「20分!?え!!!20分!?」
妹が驚愕して大きな声を上げる。
「20分も立てなかったの?情けない…」
妹が失笑して頭を抱える。
「ウケるー!」とミユ達が笑う。
「最悪じゃん、女子のシュートで」ミライも哀れそうに笑う。
「あはははは!しょうがないですよ!金的は」
藤原が笑いながら庇ってくれる。
「男の急所ですもんね、男はソコ打ったら誰でもそうなるんじゃない?」
ハルも庇ってくれた。
「だからって女子の力で…20分って…」
妹が呆れている。
「その間、ボール当てた女子はどんな様子でした?」
ミユが好奇心だけで聞いてくる。
「すごい謝ってくれました。腰も叩いてくれて…」
当時の情けなさが蘇る。
あはははははは!と大きな笑いに混じって「ださ…」「かっこわる…」といった失笑も聞こえる。
「もおー恥ずかしい!」
妹が両手で顔を覆う。兄の醜態が恥ずかしいものだったらしい。
「大変なものを付けてくれてるんですね男性って」
藤原が勝ち誇ったように惨めな男の運命を嘲笑う。
「しかもさ!そんなぶつけやすい位置に!」
ミユがゲラゲラと笑う。
「だよね…なんでこんな…すぐ当たっちゃうじゃん」
ミライも恥ずかしそうに笑う。
「ね!本当それ思いますよね!」
藤原も嬉しそうに言う。
「これが、護身術において金的を狙う理由です!狙いやすくて守りにくくて軽く当たれば死ぬほど痛い!最高の急所なんです!」
藤原の言葉に納得してしまう。
「しかも私たちには付いてない!最高なんです!」
誇らしげに話す藤原を4人の笑いが包む。
「タマって便利ー!」
「男の人って可哀想…」
「大変だねえ男子」
ニヤニヤと憐れむ声が聞こえる。
「そうなんです。男性のタマは便利で可哀想なんです。軽く打っただけで男性は動けなくなって詰むので!護身術ではとことん狙っていきます!」
藤原の宣言に女性陣からドッと笑いが起こる。
「男の急所をね」
ミユが嬉しそうな言う。
その横でハルが顔を赤くする。
「ちょっと恥ずかしいかも…」
ふふふ、藤原が笑って俺に頭を下げる。
「ヒロキさん貴重なお話ありがとうございました!」
それにつられて妹以外の3人も軽く頭を下げる。
「男性誰しも一度は経験あるんですね。可哀想ですね」
藤原の不憫そうな言い方に妹達が苦笑いがする。
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