「90年代は、もっと身体的だった。――YBA&BEYOND展から考えた欲望と自由」
「テート美術館 ― YBA&BEYOND 世界を変えた90s英国アート」を観に、京都市京セラ美術館まで行ってきた。
フランシス・ベーコンの原画を観たかったことと、80〜90年代の英国のゲイカルチャーに興味があったからだ。
ある時代を扱った展覧会の面白さのひとつは、作品を通して、その時代の空気に触れられることだと思う。
では、1990年代のイギリスとは、どのような時代だったのだろう。
それを考えるうえで、マーガレット・サッチャーという政治家の存在は見過ごせない。
1979年から1990年まで続いたサッチャー政権は、市場原理を重視し、国営企業の民営化や労働組合への規制など、大きな改革を進めた。
その一方で、1980年代の英国では失業や所得格差が拡大し、炭鉱労働者との激しい対立、北アイルランド紛争、人種をめぐる緊張など、さまざまな社会問題が噴き出していた。
さらに1988年には、地方自治体による「同性愛の促進」を禁じる、いわゆる「セクション28」が成立する。
HIVの感染拡大とエイズによる死者の増加も、同性愛者への偏見や差別をさらに深刻なものにしていった。
そんな時代を通過した英国から生まれた作品が、この展覧会には並んでいる。
人種やアイデンティティ。
格差や都市。
同性愛と欲望。
HIV/エイズ。
家族。
身体。
作品を見ていると、当時の英国社会に存在していたさまざまな摩擦が、そのまま作品の中に入り込んでいるように感じた。
私は昭和生まれで、青春時代を平成に過ごした人間だ。
だからこの展覧会は、90年代を懐かしく思うと同時に、自分自身の価値観がずいぶん変化したことに気づかされる機会にもなった。
特に印象に残ったのが、セクシュアリティを扱った作品だった。
90年代から2000年代初頭。
少なくとも私や私の周囲にいた若者にとって、恋愛やセクシュアリティは、自分が何者なのかという問題とかなり強く結びついていたような気がする。
恋をすること。
誰かを欲しいと思うこと。
そして、誰かから愛されること。
そうしたことが、そのままアイデンティティの一部になっていた。
頭の中は原始的な性欲でいっぱいだったし、その衝動の先にある濃密な人間関係のようなものに憧れていた。
簡単に言ってしまえば、今よりもっと「エロ」を求めていた。
刺激的な恋愛をしたいと思うことが、今より肯定的に扱われていた時代だったようにも思う。
テレビドラマの恋愛はドロドロしていたし、バラエティ番組では今なら放送できないだろうと思う性的な表現も普通に流れていた。
もちろんセクハラも今よりずっと当たり前に存在していた。
良い時代だったと言いたいわけではない。
ただ、性や身体というものが、今よりずっと表に出ていた時代だったように思う。
そして、私が青春を過ごした頃の恋愛は、今よりもっとフィジカルだった。
そんな気がしている。
だから、ヴォルフガング・ティルマンスの《ザ・コック(キス)》を観たとき、不思議な感覚になった。

2002年に撮影された、二人の男性が激しくキスをしている写真だ。
昔の私だったら、まず「美しい」と思った気がする。
男性同士の愛が今より強い偏見にさらされていた時代に、それでも人間が人間を求める一瞬を写した写真。
きっと私は、そこに強く心を動かされただろう。
ところが今の私は、熱いキスシーンを見て最初に、
「感染症、大丈夫なのかな」
と思ってしまった。
自分でも驚いた。
私の価値観は、いつの間にか大きく変わっていた。
その理由のひとつは、やはりコロナだと思う。
そしてもうひとつが、テクノロジーの急速な進歩である。
もちろん1990年代にも、HIV/エイズという感染症が大きな問題になっていた。
ただ、HIVと新型コロナウイルスでは感染の仕方が大きく違う。
HIVは、血液、精液など特定の体液を通して感染する。握手をしたり、同じ空間にいたりするだけで感染するものではない。
その一方でコロナは、人が呼吸し、話し、咳をすることで空気中に出た粒子から感染する。
感染しているかどうか分からない人と、同じ室内で話す。
誰かと食事をする。
近い距離で過ごす。
そういう、それまで何でもなかった行為そのものに感染のリスクを意識するようになった。
あの経験は、私にとってかなり大きかった。
人と近づくこと。
抱き合うこと。
顔を近づけること。
そういうことは、実は身体と身体を接近させる行為なのだと、嫌でも意識させられた。
だから今も、私は人と触れるということに、昔より少し慎重になっている。
そしてもうひとつ。
テクノロジーの進歩である。
AIを恋人やパートナーのように扱う人も現れた。
VR空間で人と出会うこともできる。
これから技術が進めば、人間そっくりのロボットと暮らすことも、決してSFだけの話ではなくなるのかもしれない。
そんな時代に、性愛はどう変わっていくのだろう。
展示を見ながら、そんなことを考えた。
私には、90年代の作品がとてもフィジカルに見えた。
肉体。
汗。
煙草。
家具。
衣服。
都市。
壊れたもの。
そこに置かれている物。
人間の身体と、物質そのものの存在感がとても強い。
それに対して現代を考えると、
バーチャル。
サイバー。
仮想空間。
AI。
そんな言葉が浮かんでくる。
少なくともこの展示に現れる90年代の欲望は、人間の身体や物質に強く結びついているように見えた。
だから私は、妙に「人間らしいな」と感じたのだと思う。
そして現在。
同僚が結婚しなくても、男性を好きでも女性を好きでも、私はほとんど驚かないと思う。
誰を好きになるかということ自体が、昔ほど大きな問題ではなくなってきた。
それよりもこれからは、
「恋愛する相手は人間である」
という前提そのものが崩れるのかもしれない。
いつか、
「AIと恋愛する人の権利」
「ロボットを人生のパートナーとして選ぶ権利」
そんなものを擁護する運動が生まれるのだろうか。
そして、それもまた美術作品として残るのかもしれない。
何十年か後。
私たちはロボットのパートナーと一緒にその作品を見ながら、
「こんな時代もあったんだね」
と笑っていたりするのだろうか。
最近、小川哲さんの小説にはまっていて、いろいろ読んでいる。
ちょうど京都へ向かう新幹線の中では、『ユートロニカのこちら側』を読んでいた。
その中に、「自由」と「不自由」について書かれた一節がある。
「自由とは不自由という堅固な牢獄からの脱獄者である。もし牢獄がなければ、自由は何の肩書きも持たない」
(中略)不自由がなくなれば完全な自由が得られる、という考え方自体が間違っている。人間は不自由からの解放という形でしか自由を認識できない。不自由がなくなれば自由もなくなる。完全に欲求が満たされれば欲求は存在しなくなる。意識がなくなれば、無意識もなくなる。
小川哲『ユートロニカのこちら側』早川書房 2015年 P246
この文章を読んで、人間の欲望というものは、不自由の中から生まれるのかもしれないと思った。
そして、その不自由を生むもののひとつは「他者」なのではないかとも思った。
他者がいるから、思い通りにならない。
社会があるから、制約される。
だから私たちは自由を求める。
たとえば少し前まで、女性が結婚しないという選択には今より強い社会的圧力があった。
「結婚しなければならない」という不自由があったからこそ、「結婚しない自由」という言葉には意味があった。
けれど、完全に他者から切り離された場所に行けば、人は自由になるのだろうか。
そこにはそもそも、自由を求める欲望自体が存在するのだろうか。
そんなことを考えた。
「YBA&BEYOND」展は、1980年代後半から2000年代初頭にかけて制作された英国美術を扱っている。
そこにあったのは、その時代を生きた人々の欲望の痕跡なのかもしれない。
孤独。
格差。
差別。
病。
家族。
身体。
都市。
たくさんの不自由があった。
だからこそ、人々はそこから自由になろうとした。
作品とは、その運動の痕跡でもあるのかもしれない。
では現代の私たちは、どんな不自由の中にいるのだろう。
それはやはり、他者や社会がもたらすものなのだと思う。
でも、だからといって、
他者がいない場所へ行けば自由になれるわけでもない。
むしろ他者がいるからこそ、不自由が生まれる。
そして不自由があるからこそ、自由を求める。
小川哲さんの小説を読み、90年代の英国美術を眺めながら、
私はそんなことを考えていた。
