マラドーナがナポリに残したもの。映画『マラドーナ』を観て考えたこと。
北中米ワールドカップ2026が開催されている。
1人のサッカーファンとして、イタリアファンとして、やはりイタリア代表がいないのが寂しくてならない。2018年、2022年、そして2026年。優勝4回を誇る強豪が、史上初の3大会連続予選敗退という前代未聞の事態に陥っている。
そのタイミングで、映画『マラドーナ』を観た。
ナポリの路地に、今もマラドーナの壁画がある。彼が死んで5年が経つのに。
その壁画は、ナポリがクラブ史上2度目のスクデットを獲得した1990年に描かれた。今やポンペイをも上回るほどの観光地になっているという。
映画を観るまでは、マラドーナは「史上最高のサッカー選手」であり、「薬物やスキャンダルで転落した人」というイメージだった。正直、英雄というより、欠点だらけの人間に見えた。でも映画を観ると、その不完全さも含めて愛される理由が、少し分かった気がした。
でも本当の主役は、マラドーナではなくナポリという街だったのかもしれない。
北イタリアから長年見下されてきた街。豊かさでも、洗練でも、ミラノやローマには敵わない。そのコンプレックスは、街の空気に染み込んでいる。そこへ、同じように貧しいアルゼンチンのスラムから這い上がってきた男が現れる。「僕はナポリの貧しい少年たちのアイドルになりたい。なぜって彼らは、アルゼンチン時代の僕と同じだからだ」——そう言って、彼はヘリコプターでスタジアムに降り立った。
1990年のワールドカップ、準決勝。会場は皮肉にも、マラドーナが所属するナポリのホームスタジアムだった。試合の前日、マラドーナはこう宣言した。
「ナポリはイタリアじゃないんだ。イタリア人は365日ナポリを差別しているのに、この日だけイタリア人になれと言うのか。」
キックオフ前、スタジアムに集まったナポリのサポーターたちはジレンマを口にしながらも「ディエゴ!ディエゴ!」と叫んだ。アルゼンチン国歌がブーイングを受けなかったのも、この大会でこの試合だけだった。祖国への愛より、自分たちを救ってくれた男への愛が勝った。
アルゼンチンはその試合に勝った。イタリア国民はマラドーナを罵った。そして翌年、ドーピング検査でコカインが検出され、15ヶ月間の出場停止処分が下って、マラドーナは逃げるようにブエノスアイレス行きの飛行機に飛び乗った。
スキャンダル、薬物、逃亡。どう見ても、褒められた人間じゃない。
それでもナポリの人々は、マラドーナに裏切られたとは考えなかった。コカインの検出は、ワールドカップでイタリアを敗退させたディエゴに対する、サッカー協会の復讐だと考えたのだ。「だって、ディエゴがコカインをやってるなんて、ずっと前からみんな知ってたじゃないか」と。
この街の懐の深さに、僕はロマンを感じる。
完璧じゃなくていい。過ちを犯してもいい。それでも「自分たちの物語を生きてくれた人」は、見捨てない。ナポリ自身が、何百年も北から虐げられ、馬鹿にされ、それでも誇りを失わなかった街だから。同じ痛みを知っているから。
イタリアという国全体も、少し似ていると思う。GDPは世界8位前後。「強い国」ではない。でも世界中の人がイタリアに憧れるのは、経済規模のせいじゃない。都市ごとに哲学があり、職人がいて、食があり、誇りがある。数字では測れない豊かさが、あの国には宿っている。
会社も、街も、国も同じなのかもしれない。
人は商品だけに惹かれるわけじゃない。その会社が、どんな物語を生きているのかに惹かれる。
会社を立ち上げる直前の今だからこそ、「何を売るか」ではなく、「どんな存在として記憶される会社になるのか」を考え続けたいと思った。
そして、映画を観終わってから、ふと思った。そういえばまだ、イタリアに行ったことがない。
都市国家の集合体のような国だから、ローマだけでも、ミラノだけでも、ナポリだけでもない。フィレンツェがあって、ボローニャがあって、パレルモがある。毎年行っても、きっと足りない。今年はまだ父親のこともあってタイミングが読めないけれど、行けるなら、できれば毎年でも行きたいと思っている。
街ごとに物語がある国に、自分の目で行ってみたい。
