『源氏乱舞』
2026年6月 高知県にて
『源氏乱舞』
太陽が完全に落ちた後、川面はしん、と黒く沈んでいた。
耳に届くのは、せせらぎの音と、遠くの山から響いてくる木々のざわめきだけ。
その暗闇が、ふいに揺れはじめた。一つ、また一つと、黄緑色の光が空に弧を描く。
やがてその数は増え、川の上流から下流まで、無数の光の軌跡が夜の帳を縫いはじめた。
写真が、その瞬間を静止させている。
比較明合成によって捉えられた無数の光の線は、まるで川の上にもう一本の川が流れているかのようだ。
鮮やかな黄緑色の曲線が宙を舞い、その軌跡が水面に映り込んで、夜の川を二重の光で満たしている。
暗い緑の木立を背景に、光の筆で描いたような弧が幾重にも重なり、生命の渦を感じさせる。
これはゲンジボタル(Nipponoluciola cruciata)の飛翔だ。
ゲンジボタルは本州・四国・九州に分布し、オスの体長は15mm、メスは18mm前後。体色は黒で、前胸背板に黒い十字形の紋をもつ赤斑が特徴だ。
日没後まもなく、川辺には発光しながら飛び交うオスたちの姿が現れる。
ふわりふわりと弧を描きながら光るのがオスの飛翔スタイルだ。
一方メスは、基本的に草の葉の上に静止して光り、オスからの求愛を待つ。
しかし「メスは飛ばない」というのは正確ではない。
夜が深まり、オスの活動が落ち着いてくると、今度はメスが動き出す。
産卵場所を探すメスは川の上を飛ぶが、そのスタイルはオスとは明らかに異なる。
ふわふわと漂うのではなく、目的地に向かってまっすぐ、力強く飛ぶ。
研究者によってこの行動は記録されており、産卵のために上流方向へ向かう傾向があることも知られている。
これは川の流れによって幼虫が下流へ運ばれることへの、本能的な対応と考えられている。
この写真に写る光の軌跡の中には、そうしたメスが描いた一本の線が混じっているかもしれない。
オスの柔らかな弧とは異なる、一直線の航跡として。
ゲンジボタルは流れのある水辺に群生し、幼虫は清流の石の下などに生息するカワニナ(巻貝)を捕食しながら育つ。
約10ヶ月ほど水中で成長したのち、川辺の土中に潜って蛹化し、初夏に羽化する。成虫は約1〜2週間しか生きられず、その間は食事をせず交尾と産卵に専念する。
つまり、ホタルが一匹飛ぶためには、清らかな流れと、泥の岸辺と、カワニナが育つ豊かな水底が必要だ。
この写真が写しているのは単なる昆虫の群れではなく、その川が「生きている」という証明でもある。
高知県の仁淀川は「奇跡の清流」と称され、国土交通省の全国一級河川水質調査で過去8回も日本一に選ばれた。
四万十川でも例年5月下旬から6月上旬にかけてホタルが見られ、高知の初夏の風物詩となっている。
高知の清流は、ゲンジボタルが命をつなぐにふさわしい水辺だ。
活動のピークは5月末から6月中旬ごろ、日没後19時30分から21時ごろ。
水面の下半分には、漆黒の川面に乱舞の残像が揺れている。
木々の緑はホタルの光を受けて深みを増し、川の暗闇はむしろその光を際立たせる舞台として機能している。
求愛するオスと、命をつなごうとするメス。
二つの目的が、同じ夜に同じ川の上で交差している。
その全てが、この一枚に刻まれた。
高知の清流は今夜も、光の河を流している。
