『森の小宇宙』
2026年5月 高知県にて
『森の小宇宙』
一枚の写真の前に立ったとき、私たちはまず、方向感覚を失う。
上も下もない。右も左もない。
あるのは、ただ漆黒の闇だけ。
そして、その闇の中に無数に散りばめられた、ホタルの光だけである。
それはまるで、深宇宙を覗き込んだときの感覚に似ている。
銀河が渦を巻き、星雲が生まれ、名も知らぬ星々が果てしない奥行きの中で脈動している。
けれど、この光景は何万光年も彼方の世界ではない。
これは、日本の初夏の森で起きた、ひどく小さく、ひどく壮大な現実だ。
私たちの足元から、ほんの数十センチの闇の中で、ヒメボタルたちがその短い命を燃やしながら放った光の跡である。
タイトルは、『森の小宇宙』。
風景写真という言葉だけでは収まりきらない。
森を写した写真でありながら、そこに森の説明はない。
木の幹も、葉の輪郭も、地面の湿り気さえも、すべては漆黒へと沈められている。
残されているのは、ヒメボタルが本来持っている「輝き」だけだ。
余計な背景を入れなかったのではない。
むしろ、光を純粋な存在として立ち上がらせるために、背景という現実を意志的に消し去ったのである。
この選択が、実に美しい。
なぜなら、実際に森の中でヒメボタルが飛んでいるとき、私たちの目に強く残るのは、木々の形ではないからだ。
見えているはずの森は闇に溶け、記憶に焼きつくのは、ただ、点滅しながら浮かび上がる小さな命の光だけになる。
つまりこの写真は、現場の情報を削ぎ落としたのではなく、その場で本当に感じた視覚体験の本質だけを救い上げた一枚なのだ。
画面を満たす光は、一様ではない。
鋭く瞬く小さな点があり、やわらかく膨らんだ大きな玉ボケがあり、さらにその奥には、砂粒のようにかすかな光が無数に潜んでいる。
手前、中景、奥という距離の層が、黄金の粒子だけで編まれているため、この写真は平面でありながら、どこまでも沈み込んでいく宇宙的な奥行きを獲得している。
ここには、私の美意識の転換も刻まれている。
これまで重んじてきたのは、「引き算の美学」だった。
見せすぎず、闇を残し、余白の中で光を際立たせる。
その思想は、日本的な静けさや余韻に深くつながっている。
ですが、O型でおおざっぱな私には『引き算の美学』は不得意なのであります。
良くはないのですが、なんでもあり・臨機応変・いい加減ですねm(__)m
だがこの夜、私はあえてそのリミッターを外した。
画面の中へ、一つでも多くの光を迎え入れたい。(よくばりな性格です、素がでます。)
そんな初期衝動に従い、ヒメボタルの乱舞を、ためらわずに重ねていったのである。
しかし、それは単純な「足し算」ではない。
むしろこの作品は、極限の引き算によって成立した極限の足し算だ。
