「菊地には絶対に投票するなよ!」【エッセイ】一八〇〇字
「菊地には絶対に投票するなよ! したら、福岡さんがタダで済まさんベヤ」
二年生の二学期、生徒会長選挙に立候補したときのことである。
北海道・雨竜郡・雨竜町中学校。“郡”がついた正真正銘のド田舎。その町に一つしかない中学。それでも当時は一学年で四クラス、約二百人の生徒がいた。――いまでは全校でも五十人ほどらしい。
三年の福岡さんは野球部のエースで四番、そしてキャプテン。もちろんケンカも強い。その子分たちが全校を触れ回ったのである。
理由は単純だった。
私は翌年、野球部のキャプテンになることが決まっていた。福岡先輩は、「会長なんかやっていたら、大会予選で負けるベヤ」と考えたらしい。野球部の仲間も、その考えに賛同。しかし、それ以上に先輩の脅しに逆らえなかったのだろう。
もっとも、私の動機も、たいしたものではない。
生徒会室には、会長専用の机がある。父は農林省食糧事務所(現在の農林水産省関係機関)の所長をしていた。子ども心に、「オヤジみたいな机に座れる」というだけで、会長という役職が魅力的に見えたのである。
結果は落選。
福岡先輩の「選挙運動」は効果てきめんだった。しかし、票差はわずか数票だった。副会長は、投票用紙が別なので会長に落ちても繰り上がることはない。私は野球に専念し、翌年、地区予選を無事に突破した。結果だけ見れば、先輩の思惑どおりになった。
だが大人になってから、選挙のたびにあのときのことを思い出し、考えることがある。
多数決とは、本当に最善の方法なのだろうか。
生徒会長選挙は、現在の衆議院小選挙区制とよく似ている。一票差で敗れても、その候補に投じられた票はすべて「死に票」になる。私に期待して投票してくれた生徒の意思は、何も反映されない。
住民投票でも同じである。一票でも多い案が採用され、残りは切り捨てられる。多数決は分かりやすい反面、「勝者総取り」という欠点を持っている。
一九九四年まで採用されていた中選挙区制では、一つの選挙区から複数人が当選した。そのため、多数派だけではなく、少数派の意見も議会へ届ける仕組みになっていた。
その欠点を補う方法として、「ボルダ制」という投票方法もある。
ボルダ制は、三つ以上の選択肢を設け、それぞれに一位、二位、三位と順位を付け、その順位に応じて点数を配分し、合計点で決める方法である。現在なら、ネット投票を導入すれば実現も難しくない。
この方式の利点のひとつは、「利害関係にある案」だけでなく、「二番目ならこれでもまあよい」という妥協案も反映できることだ。
実際、生徒会選挙も候補者は三人だった。つまり、選択肢も三つあった。公約は、「体育部設備の充実」「文化部設備の充実」「図書館の設備改善」。しかし投票は一人だけを書く通常の多数決だった。多数決の場合は、人数の多い部活の希望がそのまま通る可能性が高い。ボルダ制なら、それぞれが自分の最善案を一位にしながらも、「図書館の設備改善」のように全校生徒に関わる案を二位に選べば、「誰もがある程度納得できる案」が選ばれる可能性もある。
さらに、二択に絞る必要がないことも大きい。
従来の政治では、「票が割れるから」と最初から選択肢を減らしてしまうことが少なくない。しかしボルダ制なら、小さな提案でも、とりあえず選択肢として並べることができる。少数派の発想にも光が当たる可能性がある。
もちろん、ボルダ制にも欠点はある。順位を意図的に操作する投票が行われることもあるし、必ずしも一位票を最も多く集めた案が選ばれるとは限らない。万能な制度ではない。
それでも私は、多数決だけが民主主義ではないと思う。
私にとって民主主義とは、「勝った者がすべてを取る仕組み」ではなく、「できるだけ多くの人が納得できる答えを探す営み」。そうあってほしい。
もしあの生徒会選挙がボルダ制だったなら、福岡先輩がどれだけ「菊地に投票するな」と脅しても、副会長には当選していたかもしれない。もっとも、生徒会長になれないのなら、あの立派な会長机には座れない。それでは意味がないと、辞退していたような気もするが。
実は福岡先輩が強く反対したのには、もうひとつわけがあった。私の公約が、「体育部設備の充実」ではなく、「図書館の設備改善」だったのだ。その理由も不純なものであった。図書館員だった片想いの子の一言に、あっさり方針転換したのである――。
※TOP画像は、東洋英和女学院サイトからお借りしました。
