忘れもの預かり侍第三話 「名を忘れた女」
拙者
名を時雨半兵衛と申す
歳は三十と七つ
仕官の口はなし
妻もなし
金もなし
そして相も変わらず
人の忘れものを拾って
どうにかこうにか暮らしておる
忘れものと申しましても
財布や傘ではござらん
言えなかった「すまぬ」や
渡せなかった手紙
誰にも見せなかった涙など
そういう
人が心のどこかへ置いてきたものを
拙者は拾うのでござる
もっとも
拾ったところで
銭にはならぬ
腹も膨れぬ
我ながら
まことに割の合わぬ商売でござるな
さて
これは
夏の終わりの話でございます
その日は朝から
妙に風のない日でござった
柳の葉も動かず
軒先の風鈴まで
仕事を忘れて黙っておる
そんな昼下がり
拙者は橋を渡っておりました
すると
橋の真ん中に
小さな紙切れが落ちておった
踏まれて汚れた
何の変哲もない紙でござる
普段なら
拾いもしなかったでしょうな
ところが
その紙だけが
風もないのに
かさりと動いた
嫌な予感というものは
不思議なもので
当たってほしくない時ほど
よく当たる
拾い上げてみますと
そこには
女の字で一言だけ
こう書いてあった
「わたしの名を知りませんか」
妙なことを書く者もおる
そう思い
紙を裏返したが
何もない
名もなければ
住所もない
仕方なく懐へ入れ
橋を渡りきった
その時でござった
「お侍さま」
後ろから
声をかけられた
振り返ると
橋のたもとに
一人の老婆が座っておった
白い髪をきれいに結い
薄い鼠色の着物を着た
どこにでもいそうな
穏やかな婆さまでござる
「どうなされた」
そう尋ねると
老婆は拙者の顔を見て
困ったように笑った
「わたしの名前を
知りませんか」
背中に
冷たいものが走った
懐の紙と
まったく同じ言葉でござる
拙者は老婆の前にしゃがみ
尋ねた
「ご自分の名を
お忘れになったのでござるか」
老婆は頷いた
「家は覚えております」
「夫の顔も」
「とうに亡くなりましたが
あの人の声も覚えております」
「幼い頃
母に叱られたことも」
「初めて娘を抱いた日のことも」
老婆はそこまで言って
自分の胸へ手を置いた
「でもね」
「わたしの名前だけが
どこにもないのです」
不思議な話でござった
人は歳を重ねれば
忘れることもある
しかし
昔のことをこれほど覚えておきながら
自分の名だけを
綺麗さっぱり忘れるものだろうか
拙者は老婆に
家まで案内してもらった
小さな長屋でござった
中には
茶碗が二つ
箸も二膳
だが
暮らしているのは老婆ひとり
「これは?」
拙者が尋ねると
老婆は笑った
「癖というものは
なかなか消えませんね」
亡くなった亭主の分まで
今でも毎朝
並べてしまうのだという
箪笥を調べた
手紙も見た
古い着物も
小箱の中も調べた
だが
どこにも
老婆の名はなかった
妙なのは
それだけではござらん
近所の者へ尋ねると
皆
老婆を知っておった
「ああ
あの婆さんなら昔からここにいるよ」
「優しい人さ」
「うちの子が小さい頃なんぞ
よく面倒を見てもらった」
ならば名は何という
そう尋ねると
皆が黙る
さっきまで笑っていた者まで
口を閉ざす
「どうされた」
もう一度尋ねても
答えぬ
中には
顔色を変えて家へ戻る者までおった
おかしい
知らぬのではない
知っているのに
言わぬのでござる
日が傾くまで
拙者は町を歩いた
八百屋にも聞いた
魚屋にも聞いた
寺の和尚にも尋ねた
皆
老婆のことを知っている
だが
名を尋ねた途端
誰もが口をつぐむ
とうとう拙者は
町外れの小さな団子屋で
一人の爺さまを捕まえた
「頼む」
「何か知っているなら
教えてくだされ」
爺さまは
長いこと黙っておった
やがて
ぽつりと言った
「忘れたんじゃないよ」
「何?」
「あの人が
忘れたんじゃない」
爺さまは
湯呑みを置いた
「あの人の名前を」
「わしらが
呼ばなくなったんだ」
話を聞けば
老婆は若い頃
この町へ嫁いできたという
名は
千代
千の世と書いて
千代
働き者で
誰にでも優しく
困っている者を見れば
放っておけぬ女だったそうな
やがて娘が生まれ
皆は老婆を
「お千代さん」ではなく
「おふみちゃんのお母ちゃん」
と呼ぶようになった
娘が嫁いだ後は
「源さんの奥さん」
亭主が亡くなってからは
「源さんとこの婆さん」
歳を取れば
ただ
「婆ちゃん」
誰も悪気などなかった
ただ少しずつ
一日ずつ
一年ずつ
誰も彼女の名を
呼ばなくなった
そしてとうとう
本人まで
自分の名を
見失ってしまったのでござる
拙者は急いで
長屋へ戻った
日は沈みかけていた
老婆は縁側に座り
空を見ておった
拙者は
その背中へ声をかけた
「千代殿」
老婆は動かなかった
もう一度
少し大きな声で呼んだ
「千代殿」
老婆の肩が
ほんの少し震えた
そして
ゆっくり振り返った
「……はい」
たった二文字でござった
それから老婆は
自分でも驚いたような顔をして
もう一度
「はい」
と言った
目から
涙が落ちた
「そうでした」
「わたし……」
胸に手を当て
何度も確かめるように言った
「千代です」
「わたしは
千代でした」
その時
懐の中で
かさり
と音がした
例の紙を取り出すと
そこにあった
「わたしの名を知りませんか」
という文字は消え
代わりに
たった二文字
「千代」
と書かれておった
翌朝
拙者はまた
あの町を通った
すると
八百屋の主人が
「お千代さん
今日は大根が安いよ」
と声をかけておった
魚屋も
「千代さん
鯵がいいぞ」
と笑っておる
老婆は
少し照れくさそうに
ひとりひとりへ
返事をしておった
名など
ただ人を呼ぶための
言葉だと思っておりました
されど
そうではないのかもしれませぬ
父上
母上
女房
亭主
先生
お侍さま
婆ちゃん
人はいつの間にか
役目で呼ばれるようになる
それもまた
悪いことではござらん
だが
その役目の奥には
ちゃんと一人の人間がおる
その者だけの名があり
その名で生きてきた
長い長い日々がある
人というものは
名を忘れるより
自分の名を呼んでくれる者が
いなくなることの方が
よほど寂しいのでござろうな
……などと
柄にもなく考えながら
拙者は歩き出した
その時でござる
後ろから
子どもの声がした
「半兵衛!」
思わず
足が止まった
振り返ったが
誰もおらぬ
ただ
夕暮れの道だけが
長く続いておった
半兵衛
その名を
昔
同じ声で呼んだ者がおった
けれど
その者の名を
拙者はもう長いこと
口にしておらぬ
いや
口にしておらぬのではない
口にできぬのでござる
……
さて
この話は
またいつか
お話しいたしましょう
拙者
時雨半兵衛
本日もまた
人様の忘れものを拾いに
江戸の町を
歩いております
もっとも
次に拾うものが
誰のものなのか
そればかりは
拙者にも
分からぬのでございます

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