原市之進の暗殺(三)
原市之進の暗殺は、裏で山岡鉄太郎(鉄舟)や高橋伊勢守(泥舟)らが鈴木恒太郎らをそそのかしたのだと言われています。本当のところはどうだったのでしょうか。
『原忠成遭阨始末』では二人の事件との関わりについて、かなり詳しい事が書かれています。
まず鈴木兄弟及び依田雄太郎の三人が山岡鉄太郎、中條金之助、松岡萬(ともに元浪士組取締役)ら三、四十人のグループ(四谷、小石川、本郷など在住の武士)の同志であった事、そして彼らが江戸を脱出し京へ旅立った時、山岡、中條宛の書面を残していきましたが、その内容は「この度思い込み候儀御座候間、申し合わせ罷り出るに付いては諸公ここ迄の通り御異心はこれ有るまじく、宜しく頼み入る(この度決心した事があるので、申し合わせた事を公にするに当たって、誰も裏切る事のないよう、よろしく頼みます)」とあり、同志四十人の連名があったと言います。
また、酒泉彦太郎(水戸藩士)は、国事を語り合おうと山岡鉄太郎を訪ねましたが、「本圀寺の人達(遊撃隊)は何ゆえに原市之進を殺さざるや。彼を殺さざるは甚だ遺憾なり(本圀寺の連中は、なぜ原市之進を殺害しないのか。彼を殺さないのは甚だ遺憾である)」と意外な事を言うので、この人と話しても無駄だとさっさと帰ったと言う事です。
山岡、中條、松岡とくれば、清河八郎の「虎尾の会」のメンバーであり、どうも彼らの思想は浪士組の頃からあまり進歩していないように思えてなりません。清河との“早すぎた行動”のために、結果的に彼らは時局から取り残される形になってしまったのでしょうか。
一方の高橋伊勢守(当時遊撃隊頭取)ですが、自分が目付に昇進出来ないのは原市之進が邪魔をしているせいだと思い込んでいた、と言われ、「原、梅澤の手段より近畿の要地に開港せしは忌まわしき事なり」と満座の中で原を罵ると同時に「はやり男の壮士なら国のためには身命を拠ちてと誓いし程の時こそあれ(今流行りの“壮士”の男なら、国のためには命を捨てると誓うのは今だ)」とまで言ったようです。
鈴木豊次郎、依田雄太郎の二人は、遊撃隊士を名乗って原邸を訪ねている事から、高橋伊勢守と接触があった可能性も考えられるのではないでしょうか。
そして、高橋と交際のあった鈴木竹三郎という水戸藩士が、実際に前年、遊撃隊が原市之進を襲撃する計画があったと証言もしているようです。
更に同年十月十八日夜、松岡萬の弟平九郎と、高橋伊勢守の元家来(名前不詳)が小石川伝通院の所浄院に潜入し、所浄坊を斬殺して逃走するという事件が起きましたが、これは原市之進の暗殺は、元々高橋伊勢守と所浄坊が計画したものであったのに、発覚を恐れた所浄坊が罪を松岡萬になすりつけようとしたため、だと言われています。
『原忠成遭阨始末』は、原市之進の側に立って見ているので、この書だけをもって全てを判断するわけにはいかないでしょうが、開国政策を止めるわけにいかない幕府中枢部と、それに反発する攘夷派幕臣たちの対立関係というのも、幕末という時代を考える上で重要な事なのかも知れません。
※.この『原市之進の暗殺』は2014年6月にアメーバに投稿したものを加筆・修正したものです。基本写すだけだからと甘く考えて始めましたが、やはり人さまに読んでもらうと考えると、色々と考え直したり調べ直したりで思わぬ時間をかけてしまいました。しかも、その割にあんまり変わってないという反省点ばかりの投稿となってしまいました。
